木精(こだま)の歌 ─木下利玄の世界─
(その1)

written by 銀の星 (2004/08/01 Up)

その1 その2 その3-1 その3-2 その4

【その1・目次】

(1)飛翔する視点
(2)超微細(ナノ)の感受性
(3)夢の中の女性
(4)特殊な孤児

 

※この文章における木下利玄のテキストの引用は、『定本 木下利玄全集』歌集篇・散文篇(臨川書店 1977年)に依っています。但し、旧漢字は、適宜常用漢字にかえて表記しています。

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(1)飛翔する視点

 ─ 大わた小わた 日の暮れ方のうら寒み 綿着て飛ぶか 悲しい虫よ ─

 この歌を読むと、私には、枯れ草を焼く匂いの交じった冷たい空気と灰色の空、そしてそれを背景に小さくはかなく飛び交う雪虫の姿が目に浮かんできます。それはわずかな風にも飛ばされるほど軽く宙に浮かんでいるようでいて、でも、やはり自分の意志を持つかのように、ふわふわと上下しながら飛びめぐっています。その姿を見ると、今年もまた、あと半月ほどでまた初雪が来るのだなと思うのです。
 これは、日本の北辺の人たちにとっては、晩秋の感覚と切っても切れない原風景でしょう。

 それにしても、この歌人の目は、何と微細なところに焦点を合わせているのでしょう。その目は、小さな小さな虫が、その身に柔らかな綿毛をまとっている姿を捉えています。そしてさらに、その虫に向かって、“──(寒さのため、お前は)綿を着て飛ぶのか、悲しい虫よ──”と心中で呼びかけています。この時、ほんの一瞬ではありますが、詠み手自身が、虫の立場に移行しているのです。

 現代のテクノロジーは、超軽量飛行機に乗せた小型カメラで空飛ぶ生き物の側を併走し、その姿を間近に捉えるという離れ業も可能にしました。「WATARIDORI(2001年・仏)」という映画は、その代表的な一例です。この時、観客が驚いたのは、空飛ぶ鳥の(それも、鳥と同じスピードで移動する)視点位置から世界を見直すという感覚の斬新さでした。
 しかし、上の短歌は、ハイテクで“飛ぶものの視点”を発見する100年も前に、〈歌を詠む〉という観念操作の中だけで、同様の視点転換をやってのけています。しかも、ほんの小さな羽虫に対して…。

 この短歌の作者が、木下利玄。白樺派の中で、唯一、歌人として立った人でした。

* * * * * * * *

 あるいは、上の歌を一目みた人は、言うかもしれません。これは単に、初冬の羽虫に対するセンチメンタルな比喩であり、この程度の擬人法ならば、近世以前の歌人でもやっている…と。

 確かに、この1首で木下利玄の表現をすべて論じるのは、無理な話。また、日本の和歌の歴史に刻まれた歌は、近代以前の有名な歌人のものだけでも、膨大な数にのぼります。
 しかも、それぞれ時代の和歌の表現水準は、決して常に、その詠まれた時代の枠組みの中におさまっているわけではありません。どのような時代にも、斬新な言語感覚を駆使している歌は存在します。また反対に、近代短歌だから新しいとか、どの流派の影響を受けているから新味がある、という事も一概には言えません。門外漢にとって、短歌論が難しいゆえんです。

 しかし、敢えて、木下利玄という人一人に視点を絞り込んでみたら──そして、彼の短歌だけでなく、小説・随筆なども視野に入れながら、彼が残していった〈ことば〉を丹念に辿っていったならば、彼の目に映っていた世界の一端にだけでも、触れることが出来ないだろうか。

 そのような事を考えながら、彼の作品の幾つかを、読み進めてゆく事に致しました。

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(2)超微細(ナノ)の感受性

 中等学科6年の頃の写真、高等学科卒業前の写真、同人誌『望野』の頃の写真、そして白樺社主催絵画展覧会の時の記念写真──。どの写真を見ても、彼の同級生や仲間たちのほとんどが顔をまっすぐに上げ、正面を見据えてているのに対し、木下利玄だけは、いつも誰かの方に軽く小首をかしげています。それは、百合の花が、頭を少し傾げて咲いているさまにも似ています。


(「南薫造・有島壬生馬滞欧記念絵画展覧会」記念写真《部分》 調布市武者小路実篤記念館所蔵 ○前列左から3人目が木下利玄)


 そして彼自身、草木を歌に詠む事が、本当に好きな人でした。

 彼が詠むのは、いわゆる〈大自然〉ではありません。深山幽谷の景色や気象のダイナミズム、動きの俊敏な野生動物の営みは、ほとんど、彼の歌題の外(ほか)です。
 その代わり、彼は、ごく身近な草花を、ことのほか愛しました。

からみあふ 花びらほどくたまゆらに ほのかに揺るゝ月見草かな

 夏には、どこの草むらにも咲いているような、ありふれた月見草。でも、彼の歌詞(うたことば)は、その花の、まさに今、はらりと開いた瞬間を写し留めています。花びらがほどけた勢いでで茎がふるふると揺れた──そんな、人の目には決して感じられないような微かな動きまで、読み手に伝わって来るようです。

 あるいはまた、春先の、まだ芽吹きもわずかな裸の枝。こんな景色は、他の人が見れば、ただ枯れ枯れとしか見えないかもしれません。しかし利玄は、その細い枝の中で動きはじめている静かな生気さえも、先取りして感受しているかのようです。

  草山の低き雑木が新芽ふく 枝のさきさき いのちかへり来

 花や木々は、彼にとって、静止的(スタティック)なものではありません。固い樹皮の下でも、水は絶え間なく吸い上げられ、滋養分はめぐり、季節が来れば新しい生命の芽を枝先から吹き出させます。利玄はその動きを、観念ではなく、実感として受けとめていたのかも知れません。

  地の上にてわが手ふれゐるこの欅は 高みの梢へ芽ぶきつゝあり


 また、時には、魚の動きなどを眼にとめることもあります。でも、それも、決して大きな魚ではありません。たとえば、昔はちょっとした水路になら何処にでもいたメダカ。利玄の視線がとらえるのは、その小さなメダカが、人影にツイと逃げてゆく様子です。

  物かげに怖じし目高のにげさまに さゝ濁りする春の水哉
(※ささ濁り=かすかな濁り)

 メダカのように、せいぜい人の小指ほどの大きさしかない魚が身をひるがえす動きというのは、ほんの一瞬の事。まして、その水の勢いで、水底の細かい砂が揺らされて濁るなどというのは、まさしく〈ささ濁り〉であり、目の良い人にようやく見えるかどうかという事象でしょう。そうした、人が意識化できるか出来ないかというぎりぎり一線の動きを、利玄は、三十一文字の表現に結実させるのです。しかも、自分(利玄)の「物かげに怖じ」たメダカの動きとして──。
 〈雪虫〉の詠と同じように、この場合も彼は、ごくわずかな瞬間ではありますが、〈目高〉の感情の方に立ち入って歌を詠んでいるといえましょう。

* * * * * * * *

 一般に、ストーリーテラーは、ある広がりを持つ時空の幅や、そこに生きる人間関係の綾などを、巨視(マクロ)的・構成的に捉える能力にたけています。志賀や武者小路、里見などは、こうした能力の持ち主でした。

 それに比すると、木下利玄の能力とは、いわば“超微細”の世界を捉える知覚の力にあったという事が出来るでしょう。常人の感覚の幅では決して知覚する事の出来ない微細な動きを捉え、言語化する。彼の感受性は、〈ミクロ〉よりももっと小さな単位の揺らぎを感じ取る“ナノメーター”のようなものだったかも知れません。

 感覚の在り方には個人差があるとはいえ、なぜ彼は、これほどまでに細やかな感受性の持ち主だったのでしょうか。
 その手がかりにアプローチするために、今度は、彼の散文を少しのぞいてみる事にしましょう。

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(3)夢の中の女性

 木下利玄の小説は、ほとんどが彼の青年期に書かれたもので、それも短編ばかりです。中でも「女の人」という作品は、優しい雰囲気の小品です(発表は明治43年8月『白樺』誌上。利玄満24歳)
 話は、語り手の〈自分〉が、ある夜の夢で、新羅三郎義光ゆかりの〈笛塚〉※注1の所にいる一人の女性に会ったところから始まります。

 (前略)見上げると向の欄干にもたれて、二十歳(はたち)あまりの女の人が空を見て居た。
 ふと其の目を自分に落して、笛塚へ行つて見ませうと云ふ意味を私語(さゝや)いた。池を隔てた二階と階下(した)とで、二人の間は可なり遠かつたのだが、それがはつきり自分には聞き取れた、自分は子供が泣きやんで云ふ事を聞いたやうに黙つて点頭(うなづ)いた。
 女の人の白い顔が欄干から消えたと思ふと、階子(はしご)を下りて来て、自分の手を取つた、女の人の柔い左の手の掌と、自分の小さい右の手のひらと結ばつた。その時自分は六歳(むつゝ)位の子供だつた。

 夢の中の〈自分〉は、いつの間にか小さな子供になっていました。そして、幼子の目線から、美しい女性の顔をしみじみと見まもります。

 すらりとした丈の高い女の人の顔を、大きい眼をあいてぢつと見上げた。白い頸を綺麗な衣紋がめぐつて居る。その人は上から、笑みを含ませて細くした眼で自分を見下した。顔に深く出来た笑靨(えくぼ)が大変なつかしく見えて、子供だけれど美しい人だと思つた。さうして女の人が大好きになつて了(しまっ)たから、もう何処迄(どこまで)でも此の人の行く処へついて行かうと決心した。

 夢はまもなく覚めてしまいますが、幼心に感じた“ひとめぼれ”の感覚は、〈自分〉の心に不思議な余韻を残しました。〈自分〉は、その女性を以前にも見たような気がして、思いをめぐらせた末、ふと、遠い過去に、夢の女性とそっくりの女の人に出会った事を思い出します。

 それはもう余程以前の事であつた。
 招魂社の五月の御祭の時であつた。其の日はカラリと晴れて、きつい日が頭の上から照つて居た。幼い自分は母に手をひかれて、社の方から馬場へ来た。
 馬場の所に大勢人だかりがして居る。自分は其の中で、何んな事をしてるのか、見たくて堪らなくなつた。見たいと母に云つたら
「見えやしないからおよし」と云はれた。
 其の中に、群衆の面白さうに笑ふ声が聞こえた。その声をきいてはもう我慢出来なかつた。
「見せて頂戴よ、お母さん」と甘えるやうに云つて、母の袂を捕えて身體を揺つた。
「此の子は仕方がないのねえ」と微笑んで、若い母は人垣の後から、自分をおん負(ぶ)して見せて呉れた。 (中略)

 するとその人垣の中に一人、美しい女の人がいたのでした。

 此の女の人が一番前に出て居て、微笑みを一重うすい紙で包んだやうな面持(おもゝち)で見て居た。その時の女の人の涼しい眼は、年を経ても褪めない色を記憶に塗つた。
 自分は何とはなく、その中に独楽廻しの事も母に負われて居る事も、他の事はすつかり忘れて居た。さうしたら姉さんと呼びたいやうな気持ちになつた。姉は自分が三歳(みつゝ)の年に十幾つでなくなつたと母から聞いて居た。

 我を忘れて居る時、俄に「もういゝでせう」と云ふ母の声が耳に聞えて、なつかしい女の人が見えなくなつた。同時に独楽廻しも円い地面も青い草も消えて、自分は低い地面に下されて了つた。何処かゝら落ちたやうなよくない気がしたから、
「もつと見てるの、ねえお母さん」とねだつたけれど、
「いゝえ、もう沢山よ、お家へ帰るのだからね」と自分の手は無理に引かれた。

 其の時女の人もお母さんに自分と並んでついて来て貰ひたいやうな気がした。さうして自分の空いてる方の手が引いて貰ひたかつた。後では又皆の笑ふ声がする。あの女の人も笑つてるんだらうと思へば、一所に未だ独楽を見てる人たちが羨しくて、淡い嫉妬をさへ感じつゝ、物足りない心を抱いて、自分は重い歩みでこゝを後にして歩いて行つた。

 見知らぬ、でも懐かしい感じのする女性。優しい若い母。〈自分〉が3つの年に亡くなったという、記憶にない姉のおもかげ──。思い出の女性の笑顔は、「微笑みを一重うすい紙で包んだやうな面持」だったと表現されていますが、そこにはまた、母や姉のイメージも、何重にも重ねあわされています。その、淡いベールのようなイメージの重層が、作品に柔らかな叙情をかもし出しています。

 〈夢の中に出てくる象徴的な女性〉といえば、漱石の「夢十夜」(明治41年)の第1夜が思い浮かびます。もしかすると、同時代の読者として、利玄も少なからず影響を受けているかも知れません。しかし、幼心のあこがれとしての女性のイメージを幾重にも重ねたところや、言葉のはこびが簡潔で無駄がないという点から見て、これはこれ自体完結した、きわめて完成度の高い作品だと言うことができます。
 この作品が発表されたのは、発刊したばかりの『白樺』誌上ですが、これを読むと当時、他の同人たちが“木下はいずれ小説の方に進むのだろう、短歌は余技なのだろう”と思っていたというのもうなづけます。

 しかし、利玄のこの小説には、白樺派の他の散文作品にはない大きな特徴がひとつあります。 それは、この作品世界が、土台からほとんどすべて、フィクションのみで出来上がっているということです。もちろん、彼の作品全部が虚構というわけではありませんが、実体験を基盤に据えなくとも、彼は“書けた”という事なのです。

 初期の『白樺』掲載の小説は、武者小路実篤や長与善郎の作のように、やや自伝的・自己表白的傾向の強いものや、初期の志賀直哉の作のように比較的フィクショナルなものなど、様々な種類があります。ただ、一つだけ言えるのは、誰にしても、自分で見聞きしたことや経験した事には非常にこだわりが強い、という事。ですから、設定は創作でも、細部のシチュエーションは、“誰の、何時の、どんな経験だったか”と裏付けがとれるものが多いのです。あの、ずばぬけてロマン主義的な郡虎彦さえ、作中に描いた恋愛感情などについては、彼の心的体験と直接照応するものが少なくありません。

 ところが、木下利玄には、「女の人」に描かれているような慕わしい大人の女性との思い出は、知られている限り、ほとんど無かったのです。まったく無かったといっても、過言ではないかも知れません。

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(4)特殊な孤児

 彼は、まだ物心つく以前の満4歳の年に、岡山県足守に住んでいた実の親からひきはなされて、東京の木下本家の当主としてもらわれてゆきました。本家の当主が、跡継ぎを残さずに亡くなったからです。
 本家にもらわれるにしても、せめて、前当主の未亡人でもいてくれれば、彼にとって、一応の母代わりという事になったかもしれません。しかし不運なことに、前当主夫人の方も、すでに世を去っていました。

 しかも、利玄を当主におしたてた後見人兼家老格の人物は、やや頑(かたく)なな所のある厳格な男性でした。彼は、幼い利玄に、しかるべき乳母をつけるということもしませんでした。また、その教育は「子供の心理を理解せず、只彼の感情で、私に我儘とか悪い事とかが見えれば、容赦なく叱責するといふやり方で、子供の自由とか、独立とか云ふ方面の事は、少しもかへりみて」(随筆「道」)くれないという類のものでした。
 少年の頃のさみしさを、利玄は、のちにこのように書き記しています。

 私は、明治十九年の一月一日、備中国吉備郡足守町といふ田舎町で、小大名の当主の弟を父として生れました。私は五歳迄此山里の城下で、父母の膝下に暮したのです。 (中略)
 明治二十三年の三月に、私の伯父なる当主が、東京神田の家で亡くなり、其跡嗣の子がないので、私の家の一門の会議が開かれて、何でも種々の議論の結果、当時五歳の自分が、世嗣として東京に行く事に定められたのです。

 其年に、一門の一人で家老の家なるKOとNSの二人に連れられて、私は故郷を立出づる事になりました。此以後、私は父母の膝下に暮すといふ事はもうありませんでした。父は其後、私の小学校時代に一度上京し、又私も十八歳の時一度と二十歳(明治三十八年)の春と二十一歳(明治三十九年)の春に父の病気を見舞ふ為帰省しましたが、それは極く短い時日の如何にも慌しいものでした。父は私の此三度目の帰省中、亡くなつたのです。又母には五歳の時から逢ふ機会はありませんでした。母は私の七歳の時、故郷で亡くなつて了ひましたから。

 私はかくして特殊な孤児のやうな境涯に成長したのです。後年帰省して父母の墓に詣で、東京で暮し度いといふ望みを果さずに死んだ父を悲しみ、又はやく別れ若くして死んだ、俤(おもかげ)さへ覚えて居らぬ母をどんなに慕はしく想望したでせう。
(「道」 初出・『新家庭』1922年(大正11)8月号)

 ──「もっと見てるの、ねえお母さん」──可愛いらしいおねだりの言葉です。しかし、ものごころついて以来、現実の利玄の周囲には、そのように安心し切って甘えられるような女性は、一人もいませんでした。
 また、そもそも、いくら村一つ程度の規模の小大名(公称2万5千石、城は持てず陣屋住まい)の、そのまた弟という傍流とはいえ、彼は紛れもなく大名家に生まれた人。ですから、たとえ生家で育ったとしても、母親に直接おんぶされて、大道の見世物を見物するなどといった家庭的な経験は、やはり出来なかったことでしょう。多分そういう場合こそ、乳母や世話係の女中がついてゆく事になったと思われます。そうした意味で、上の小説のシーンは、利玄にとり、二重三重にフィクションだったのです。

 それで、いやに皆から若殿様と特別の人の如く取扱はれ、然もKOの義務的観念から潤ひのない厳酷さで監視されましたから、私は非常に寂しく頼りなく、KOには決して心服出来ず(尤もこれが、彼が殿様を育てると云ふ一生懸命な義務的観念の表はれであつたので、今思へば実にお互の不幸でした)、反抗的な心を持ちつつ自分の幼弱さからおさへつけられてゐまして、少年の悲哀といふやうなものをしみじみ感じてゐました。(中略)

 その頃家は、四谷坂町の幼年学校の前にあつたが、四谷の家は私の家とKOの家とΝSの家と三軒に分れてゐて、その間に運動場といつてブランコと鉄棒を拵へてある場所がありました。夕方など、そこへ出て遊んでゐるうちに日が暮れて士官学校の山の木立に風が鳴り、稽古に吹く兵隊のラッパが、星の見え初めた空に響渡るのを聞きながら、非常に感傷的な気持になつてゐた事を、今でもはつきり思ひ出す事が出来ます。さういふ時に、KOの子供やΝSの子供はそれぞれ邸内にあつた父母のゐる家へ帰つてゆきましたが、私は女中下男ばかりの索漠たる家へ帰るのです。私は陰鬱な思ふ事も快活に云へない少年として育ちつつありました。
(同上)

 安心して気持ちを寄せられる人もなく、心を解放することも出来ない〈特殊な孤児〉。しかも一方では、まるで自分の存在が絶対であるかのように特別扱いされる。現代では、こうした子供はやがてコミュニケーション障害を起こし、対人関係がうまく結べなくなるいうのが一種の定説になっています。

 しかし、利玄が友だちに残した印象というのは、そんな現代の通念とは、まったく違っていたようです。

志賀 (前略)木下は家庭的にはかわいそうな人だった。ちゃんとした乳母みたいな人はいなかった。僕らチャボ、チャボっていってたんだけど、小さな、なかなか気の強い男──まあ、三太夫だな、そいつに育てられていたんで、本当の両親との縁はほとんどないんじゃないかな。(中略)どうも家庭的なあたたか味なんて、あんまり知らなかったらしいね。だから遊びにくると、もういいかげんに帰ったらいいと思うのに、ゆっくりやっているほうだった。(後略)
里見 そういう育ち方をしているにもかかわらず、とても明るいんだな、われわれの仲間でいちばん明るい。それにしゃれやもの真似なんかもうまかったし、とにかく滑稽なんだ。

(「明治の青春」(対談) 『海』1970年2月号)

 明るく、愉快な、人懐こい青年。成績も優秀で(学年中2位)、志賀も勉強面ではこの年下の友に信頼をおき、作文の時にはよく仮名づかいなどを直してもらっていたそうです。※注2もっとも古くから幼なじみだった武者小路も、木下利玄について、このように書き記しています。

 木下はおとなしいたちで、僕は木下が死んだあと、木下の夢を何度も見たが、一度も木下と口論した夢は見ず、いつもあと味のいい夢ばかり見た。そしてなつかしい感じを持ち、木下が早く、それも肺で死んだことを気の毒に思い、残念に思っている。
(武者小路実篤『思い出の人々』 講談社・1966年)

* * * * * * * * 


 自分が〈多少快活な〉少年に変化した転機を、利玄は、中等科の時期だったとしています。中等科の6年間の大半を、彼は〈塾〉で暮らしました。

 この場合の〈塾〉とは、寄宿舎代わりの私塾の事だったと思われます。学習院の寄宿舎(後に、地震で一時期閉鎖)は、生徒全部をいれる事はできなかったため、華族の中の数家が、屋敷を寄宿舎がわりに提供していたのです。下の学年の郡虎彦も、一時、学習院教授の神田乃武の家に寄寓していたとの事ですが、この場合の神田邸も同じ機能を果たしていたのでしょう。
 頑固な〈三太夫〉から離れ、同じ年代の子供たちと暮らした6年間は、〈特殊な孤児〉だった彼が、生まれて初めての解放感を味わった時期だったのでしょう。

 しかし、ここで特に重要なのは、そこが寄宿舎専用の建物ではなく、個人持ちの大きな屋敷だったという点にあると思われます。
 一度に数多くの学生を収容する寄宿舎に対して、個人の屋敷では、キャパシティもせいぜい10数名前後。でも、集団生活としては、多すぎもせず、程のよい人数です。
 しかも、利玄が身を寄せた〈松浦伯爵〉の塾とは、石州流の茶道の師匠だった先代当主が建てた別荘でした。その広い敷地には、茶人好みの、風雅な建物と庭がしつらえられていました。

 其家は松浦伯の別荘で、石州流の茶の先生なる先代伯爵が、経営しかけた処で、建物なんかも可なり凝つて居り、又庭の山には躑躅(つつじ)が一杯植ゑられ、自然の地勢を利用した、山間の池の奥には、瀧壺があつて、其辺は熊笹や杉や雑木が茂つて、幽邃(ゆうすい)なものでした。
 此の別荘以外の敷地も、荒れるに任せてありましたが、或所には春菫(すみれ)が不思議な位かたまつて咲き、或処には椎の大木が茂つてゐて、昔茶屋のあつたといふ見晴らしのいい高台もあり、又或片岡には梅林があつて、正月の末頃から日表に咲き初める処もありました。

 暑中休暇が済んで、九月の初めに、塾に行くと其頃二百十日前後の嵐がよくあります。其あとの楽しみは又格別なものでした。それはもと百姓家だつた敷地にある、栗や柿を拾ひに行く事です。私はかういふ自然に対して、私の幼稚な詩想を練らうとつとめました。
(「道」)

 庭園というのは人工の環境ですが、いったいに〈茶人〉には、あまり造り込まれている様子が露骨に見えない庭の方が好まれます。それに、利玄も書いているように、広い松浦邸の敷地は、適度に手入れの手が抜かれており、結果的に、あちこちに思いがけない自然の妙が繰り広げられていたようです。子供の目の高さから見た時には、そこはまさに“小天地”のようだったことでしょう。
 そんな中を、様々な発見をしながら歩き回り、〈幼い詩想〉ながらも空想の世界に遊ぶことで、利玄はいつしか、心の中に出来たひび割れを自分で埋めていったのだと思われます。同年代の子供たちと友だちになる事も、様々な草花を見つけて親しむ事も、彼にとっては、ほとんど位相の違わない、同時的な体験だったに違いありません。

 〈はるさむ〉というのは、彼が学習院生時代に用いていた雅号の一つです。これは多分、本名の利玄(としはる)に因んで、何気なくつけた名前でしょう。でも、この雅号ほど、当時の利玄を端的にあらわしている名もありません。春まだ浅い日々のような、寒々とした生い立ちの中でも、彼は少しずつ、自分の温かな性情を育んでいたのです。

(続く)

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【注】

1 〈笛塚〉
 笛塚伝説は、後三年の役(1083〜1087)の時のエピソードに依っている。
 新羅(しんら)三郎・源義光は、兄の八幡太郎・源義家が奥州で苦戦しているとの報を受け、急ぎ援(たす)けに向かう事にした。
 その義光は、当時の武人としては珍しく風雅な一面を持ち、笙(しょう)の奏者としても優れていた。彼の笙の師・豊原時元(とよはら・ときもと)も彼の才能を認め、わが子時秋(ときあき)が幼い頃には、本来なら一子相伝であるはずの秘曲を義光に教えていた。
 その義光が戦に向かうと聞き、時元は、すでに成長していた時秋に彼の後を追わせた。かつて義光に伝授していた秘曲を、息子に授けてもらうためにであった。万が一、義光が戦いで命を落とせば、笙曲の伝承はそこで絶えてしまうからである。
 時秋は、足柄山(一説には箱根)で義光に追いついた。そして義光も師の志を察し、山中で一夜、時秋に秘曲を伝授した。その時、かつて師から授(さず)かっていた笙の譜も時秋の手に戻し、また、曲を奏でた笙をその場に埋めたという。
 その伝説の場所が〈笛塚〉と呼ばれるようになった。現在でも、足柄峠では、この伝承に因んで〈足柄峠笛まつり〉(9月)が開かれ、雅楽の演奏等が催されている。

2 「木下は作文と、歌とが得意だつた。志賀は文章をなほしてもらつたこともあつた。成績もよかつた。高等科になつて、木下の保證人はよびつけられて、志賀とあそぶやうだが、それはよくないと云はれた。あとで先生はさう云つたことをあやまつたが。それ程、木下は優等生だつた。二番か三番位ゐには始終ゐた。」
武者小路実篤「白樺を出すまで」 『白樺』Vol.8 No.12(1917年12月)

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