先祖は御所のウォーリアーズ (2003/09/26 Up)

第3章 時を超えて ─明治三十年代の学習院─
(1)学習院の興風会
(2)先祖の〈血筋〉?
(3)消された反逆のドラマ
(4)めぐり逢い・ふたたび

 

第3章 時を超えて ─明治三十年代の学習院─

(1)学習院の興風会

 さて、そろそろ、明治時代の学習院に戻ってみましょう。場所は東京・四谷、時は明治三十七年。もう、幕末の動乱は、すでに40年以前の彼方となっています。

 この年の十二月、学習院の校友会誌『輔仁会雑誌』に、〈同窓の学友諸君に!〉というタイトルで、一つの広告が載りました。日付は十一月十二日付。院内の数名の有志が、〈桜心会〉という興風会(校風刷新の会)を自主的に結成して、皆に呼びかけをしたのです。
 そこに挙がっている有志11名の名は、以下の通りです。

 一條道良  本多実芳   正親町公和  岡部長景
 何 盛三  武者小路実篤 裏松友光   松村 務
 北尾富烈  土島貴孝   諸岡甲松

 ここでやはり、まず目についてしまうのは、正親町公和・武者小路実篤の名前でしょう。それから、裏松友光の〈裏松〉も、覚えていらっしゃるでしょうか?宝暦事件に連座して、30年も蟄居させられた身でありながら、その間、古文献から平安朝の大内裏の様子を復元して、結果的に復古調の御所の造営に多大な貢献をすることとなった、裏松光世という人物がいましたね。彼は、あの裏松光世の子孫です。
 友光は、実篤のまたいとこにあたり、初等科の頃からの同級生でもありました。実篤の母方の祖父は、裏松家から勘解由小路(かでのこうじ)家に養子に入った人なのです(※注13)

 当時の学習院は、〈皇室の藩屏〉を育成するために、スポーツや行軍演習などに力を入れた所。その意味では、肉体の鍛錬や、規律・身なりにも厳しい学校でした。でも、この時期の院長・近衛篤麿(あの、近衛家の子孫です)が比較的放任主義的だったこともあり、学生同士の交友関係や、放課後の生活に関しては、指導もわりあい緩やかだったようです。

 そのせいか、真面目な学生はひどく真面目で優秀で、正義感・倫理感も強いのに、悪い学生ときたら相当なワルという風に、校風も両極端に分かれていたようです。何かというと暴力を振るう輩もいれば、下級生に男色関係を強要するなんてザラ。また、一歩校外に出れば、まだ十代半ばになるかならぬかで悪所通いをしたり、悪い薬に手を染めたり…。
(何か、〈学習院〉とかその周辺って、こういう話が多い気が…A(-_-;) )
 そこで、学校の雰囲気を少しでも正そうと、上記11名が立ち上がったのです。

 この11名の中には、もちろん、武家華族の者も非華族の者も含まれています。彼らそれぞれの背景には、また別のドラマがあることでしょう。
 でも、公卿華族の子弟に限っていえば、こうして“この乱れ、黙って見過ごしてはいられない!”とばかりに頑張っている有り様に、先祖からの血がまたもや騒いでいる様子が、二重写しになって見えるような気がします。


 

 面白いのは、彼らの問題意識が、どの時代でも、必ずと言っていいほど、〈今・ここにある我々の在り方を変えなければ〉という風に、自己否定の契機として立ちあらわれるという点です。

 例えば、江戸時代では、公卿が公卿としての在り方(秩序や行動様式)そのものを否定してまで対外問題に関わろうとし、維新後は、単に〈聖恩〉を受けるだけという在り方から脱却して、〈国家に裨益〉ある存在であろうとする(「白樺派 on the street」第2章-3参照)という風に。そしてまた、明治三十年代の学習院においては、単に校内の風紀だけでなく、〈社会〉との関わりを念頭におきながら、学習院生の在り方そのものを変えていこうと試みたのです。

 ですから、これらの試みは、いつもある意味で自己疎外的。でも、彼らのキャラクターは、そうした“今ある自分を超えて”という努力の方向に、とりわけ強いエモーションを感じるようなのです。

 そう考えると、幕末の“彼ら”が過激なまでの尊攘派でありながら、天皇の個人崇拝には向かわなかった理由がわかる気がします。
 また、それは、学習院の〈桜心会〉についてもいえること。“学習院の校風を正す”というと、一見、学校側にとって非常に都合のよい事に見えますが、しかし“自分たち華族子弟の在り方とは”という問題を考え詰めた彼らは、〈桜心会〉に集まった穏健派の学生たちをさえ物足りなく思い、会を解散してしまうのです。

 やがて、その中でも文筆に長けていた武者小路や正親町が、他の仲間と共に回覧雑誌を始めるようになる。一方校友会誌上では、学生批判ばかりか教育批判に筆をふるい、あげくには軍人批判・院長批判(乃木院長時代)の演説までするようになったのですから、学校も扱いに困ったことでしょう。

(2)先祖の〈血筋〉?

 なお、武者小路実篤については、親戚・いとこ関係をあらためて見なおしてみると、興味深い事に気がつきます。母・秋子の実家は勘解由小路家。しかも、その母の姉妹が嫁した甘露寺家(実篤のいとこは甘露寺受長(おさなが))、烏丸家(実篤のいとこは烏丸光大(みつまさ))と、この三家はいずれも、幕末の朝廷騒擾の過程で名前が上がる家なのです。

 また、一方の中山家・正親町家・園池家の繋がりにしても、こちらは天皇家がらみで、やはり養子のやりとりをしたり、娘を嫁入らせたりと、血族的な結びつきを深めようとしてきたことがわかります。

 しかも、家系や門流の分類でいえば、〈閑院家〉の流れが正親町・武者小路・園池、〈日野家〉の流れが烏丸・勘解由小路・裏松、〈勧修寺家〉の流れが甘露寺と、ある程度の広がりがある(※注14)。決して、伝統的な同門の結束にはこだわっていないようなのです。

 このように家柄のまとまりを離れて養子・嫁をやりとりすることは、過去にも普通に行われていたのでしょうか。それとも、これこそ、幕末の尊攘の同志たちの横の紐帯であって、彼らはそれを、新しい血縁という形でさらに確かなものにしていこうとしていたのでしょうか?
 なにせ、公家社会のことは、解き明かされていない点がたくさんあります。こうしたことを明らかにするのも、これからの課題となるでしょう。

 なお、もう一つだけ興味あることをいえば、この中でものちに『白樺』に関わるようになった3人、武者小路・正親町・園池の共通点は、すべて閑院家の流れ。しかも、彼らだけが〈羽林家〉(※第1章(4)・参考2参照)に相当し、あとは勘解由小路も烏丸も裏松も違うのです。〈北極星を守護する星々〉の末裔…なんて、イメージが素敵ですね。みな本来は武官の家柄だったというのも、不思議な符合です。

(3)消された反逆のドラマ

 しかし、では、武者小路たちは、彼らの親・祖父の代からの深い縁によって、必然的に結びついたのでしょうか?
 巨視的に見れば、確かに、そう言っても間違いではないでしょう。でも、彼ら自身の育った状況に即してみれば、必ずしも、そうとは言えないという気がするのです。

 おそらく彼らは、同じ公卿華族ですから、お互いがどういう家柄だったか、アウトライン程度の知識はもっていたと思われます。
 しかし、それでは、“自分たちは、数代を遡る昔から、しばしば志を同じくして時代に抗した仲間同士の家の者だ”と特別な親しみを抱いたか?といえば、むしろ、そんな事はなかったのではないでしょうか。
 事実、こうして昔の経緯を知ったあとで見なおしてみると、彼らは逆に、驚くほど、互いの背景について何も触れないし、何も書いていないのですが、それは、あながち、知らないふりばかりではないだろうと思われるのです。

 その最大の原因は、明治以降に天皇制が布かれ、天皇が、名実共に正統な〈国家元首〉と扱われるようになってしまったことにあります。

 維新後の天皇制においては、“天皇は日本における〈万世一系〉の国王で、いちじは武家に実権を譲っていたが、今また元首の位置に就くべくして就いたのだ”と表現する必要がありました。
 そうなると、詳しい過去の経緯などは、正統性の説明にはかえって邪魔になります。〈光格天皇は傍系からの養子だった〉とか、〈光格天皇も孝明天皇も、そして明治天皇も、摂家ではなく、それより格の低い家柄の女性から生まれた〉などと言うことは、事情を知る人たちだけが知っていればいい事柄。
 まして、天皇が時の政権に対して謀反を企てたとか、そのために養子縁組までしたとかいう話は、ドラマチックではありますが、維新後すぐには、生々し過ぎる内容です。特に明治の前半期は、まだ国中に、徳川氏復活や新政府転覆の気運がくすぶっていた時代。 このような事を公にするのは、体制側としてはためらわれるでしょう。

 その上、〈学習院〉という華族学校での教育を考えると、影響はもっと複雑です。そこには、徳川慶喜の息子をはじめ、徳川政権を支えた首脳陣の子弟がずらりと学びに来ています。戊辰戦争で干戈(かんか)を交えた藩の、藩主や藩士の子もいます。いや、元薩摩藩や長州藩関係の子弟にとっても、朝廷の騒擾事件や、〈八月十八日の政変〉についてなどは、各家の立場で解釈も大きく異なるデリケートな問題。下手に話題にのぼれば、お互い、話がややこしくなるばかりだったでしょう。

 “もう公家も武家もない、いずれも天皇のもと、平等に〈華族〉である”という建前で生きると決めたならば、敢えて混乱を招くような言動は慎もう。これが、おそらく、当時の大部分の華族が選んだ方針だったでしょう。特に公家は、ある意味では“知りすぎている”だけに、やっとつかんだ天皇中心の政権を維持してゆくため、細心の配慮をするようになったのではないでしょうか。

 

 

 かくして、江戸時代末期に三代続いた公家たちの反逆のドラマは、表向きの歴史の中では、無かったことにされてしまいました。例えば光格天皇の息子・中山忠伊や、その末裔の中山忠英などの活動は、政府高官・田中光顕や明治天皇の外祖父・中山忠能によってその事実が秘され、正当に顕彰される事もなかったといいます。(※注15)

 また、中山忠能自身も、個人としては〈麝香間祇候〉という、“伝統的な宮中の官位”として高い地位を与えられましたが、決して、大臣となって直接政権を執るということはありませんでした。かつて、前時代には天皇の外祖父だった正親町家の人々も、調べた限りでは、侍従長をつとめた程度。まして武者小路家の場合、実世(実篤の父)個人は将来を嘱望されていたものの、その〈家〉の者が地位や権勢を約束されていたわけではありませんでした。だからこそ、その未亡人や遺児たちが貧困に苦しんだわけです。
 何らかの形で実権のある地位についた公家は、三条実美や岩倉具視などのごく一握りだけ。あとは、薩長土肥等の元志士たちが、大半、そうしたポジションを占めてしまったのです。

 このように、おおむね、過去との絡みで微妙な立場に立たされた元公家たちは、結局、家人にも子孫たちにも、あまり積極的には過去のいきさつを口にしないようになった。また子供たちの方も、現在の学校での関係に邪魔な過去などには、とりあえず、あまり関心を持たないようになり…。家庭の雰囲気による差もあるでしょうが、多分、実状はそんなところだったのではないでしょうか。

 それに、もしも、友人づきあいや親戚づきあいの上で、かつての朝廷内での“同志”の紐帯がそんなに深いものだったとしたならば、武者小路実篤も、学習院に途中編入した正親町公和も、そんなにも、友だちがいなくて淋しい期間を過ごさなくてもよかったはずだと思うのです。 第一、正親町公和の方は、明治三十四年頃に学習院中等科に編入になる以前は、普通の尋常中学校に通っていました。これは、彼の親たちが、少なくとも最初のうちは、子供をわざわざ〈華族〉のネットワークの中に入れて育てなくてもいいと考えていたことの証左のように思われます。

(4)めぐり逢い・ふたたび

 維新後からの社会構造の変化や地位の向上が、かえって、いちどは父祖の代で結びついた彼らを、またひきはなす方向に作用してしまいました。意地っ張りで頑固で、友だちの少なかった武者小路。なぜか4つも年下の学年に編入されてしまい、しばらく無口だったという正親町…。ばらばらだった頃の彼らを想像すると、どこか孤愁の影がつきまとうようにも思われるのです。

 けれど、案ずるのはご無用。こうした若者が孤独の時間を経るのは、どこか、蝉の幼生の時期にも似ています。心が成長するだけ成長したあとは、〈学習院〉という独特の空間の中で、ちゃんと〈友だち〉を見つけることができるのですから。

 当時の学習院は、旧〈学習院〉とはまた別の意味で、元公家も大名も士族も平民も、華族も非華族も同じくらいにごちゃまぜのハイブリッド空間。幕末、公卿たちが、旧〈学習院〉の中で“武士と直接口をきいてはいけない”などという禁忌をたやすく超えてしまっていたように、明治の〈学習院〉の中でも、いろんな関係の越境があちこちで起こっていたのです。
 ちなみに、先の〈桜心会〉に、〈北尾富烈〉という変わった名前の人がいましたね。彼の名の読み方は〈ふれつ〉、本当の音は〈Fritz〉。つまり、ドイツ人とのハーフだったのです。明治の学習院に、西洋人を親に持つ人がいたなんて、一寸意外でしょう?しかも彼は、後の〈白樺派〉メンバー共通の親しい友人だったのです。
 〈白樺派〉は、彼らの外部にいた様々な異色の個性をまきこみ、関係を広げる強いパワーを持っていましたが、もうこの頃から、その能力を発揮しはじめていたのですね。

 

 

 それにしても──。様々な昔のいきさつがわかり、家系の背景がわかり、個人の資質もわかって、それでもなお、理屈で割り切れない〈不思議〉は、人と人とのめぐり逢いの縁です。

 武者小路が、『白樺』の仲間について回想するとき、いつもまず最初に語られるのは、正親町との出会いのこと。このエピソードは必ず、志賀直哉との思い出の前に置かれます。

 正親町は彼(武者小路)が五年(中等科)の時かに、入学した。組がちがふので同級だったが、殆んど話はしなかった。たゞ絵のうまい、文学に興味のある人だと云ふことを聞いて懐かしい気がしていた。文学に趣味があると云ふことは、彼には何となく貴いことのやうに思はれてゐた。しかし親しくするをりは来なかった。
(武者小路実篤『或る男』 七十四)

 芸術への憧れ、芸術に触れている、自分よりも〈大人〉の人への憧れ。それももちろんあったでしょう。でも、その人を、まだ、よそながら遠く眺めているだけの時から、武者小路は、正親町に、〈懐かしい〉という感情をもっていたらしいのです。
 この回想はその時からほぼ20年後のものですが、回想の中でもさらりと“懐かしい気がしていた”と書いて、本人もまったく不自然と感じていないらしいところに、逆に、その感覚の根源の深さが思われます。

 長い時を経るあいだ、同じ夢を抱き、情熱を傾け、時には危ない橋も渡りながら、厳しい身分の規(のり)をこえて協力しあい、戦った者たち。その流れをくむ子供たちが、いちどは離ればなれとなりながらも、再び互いの人生が交錯した時、相手のことを〈懐かしい〉と感じたというのです。(ただ、残念なことに、正親町の方は、この時期の回想を残していませんが…。)

 〈記憶の遺伝〉とか、〈記憶の共有〉というものがあるのだろうか?それとも、これが、もしかすると、〈ソウルメイト(魂の友)〉というものなのでしょうか。いつもは“武者小路と志賀”の物語に隠れた形の、武者小路と正親町の出会いですが、これも大事な一つの、ミステリアスな物語──〈時の輪の接するところ〉での、二つの魂の再会だったようにも思われるのです

(了)

(2003/09/25 書き下ろし by 銀の星)


【注】

13 「僕は『小さき世界』に、田浦という名で彼をモデルにつかったことがある。僕とまたいとこの関係がある。僕の母方の祖父は裏松家から養子に来たのだと聞いている。」
   武者小路実篤『思い出の人々』(講談社 1966年) 78p

14 慣例で、公家全体を25家(流)に分けている。
   (摂家・大臣家・閑院家・花山院家・中御門家・御子左家・日野家・勧修寺家…等)
    ※なお、25家のうち、12家までが奈良・平安朝の藤原氏を祖とする。その他は、主に、天皇の子孫を称する。

    閑院家・日野家・勧修寺家の概説は次の通り。
    〈閑院家〉
    藤原道長の伯父・公季の子孫。25家ある。
    閑院とは、藤原冬嗣の邸宅のこと。“親しい人だけが集まる閑静な場所”という意味のことばが屋号となった。
    〈日野家〉
    藤原冬嗣の兄・真夏の子孫12家。真夏の孫・家宗が京都・日野に法界寺を建てたことに因む。
    〈勧修寺(かじゅうじ)家〉
    藤原冬嗣の六男・良門の子孫13家。
    良門の孫娘が醍醐天皇を生んだ事を機に勧修寺が建設された。のちに、それが一族の氏寺となったことに因む。

15 陛 青山(きざはし・せいざん)「淀屋の歴史2」 (既出)
   http://homepage2.nifty.com/yodoyabito/yodoyarekisi2.htm
    


【主要参考文献】
『開校五十年記念 学習院史』(学習院 1928年)
下橋敬長『幕末の宮廷』(東洋文庫353 1979年)
藤原覚『幕末の天皇』(講談社選書メチエ26 1994年)
管宗次『京都岩倉実相院日記』(講談社選書メチエ263 2003年)
『公卿人名大事典』(日外アソシエーツ 1994年)
『明治維新人名辞典』(吉川弘文館 1981年)