小泉 鉄(まがね)  Episode-1

明治十九年〜昭和二十九年(1886〜1954)

福島県生まれ。旧制会津中学を明治三十八年(1905)に卒業。上京し、第一高等学校に進学後、児島喜久雄と知り合う。東京帝国大学哲学科中退。はじめ第二次『新思潮』に参加するが、武者小路実篤に共鳴し、明治四十四年(1911)より『白樺』同人となる。ゴオガン(ゴーギャン)の「ノアノア」を初めて和訳したほか、ストリンドベルヒ(ストリンドベルグ)を精力的に紹介。「三つの勝利」などの小説にも健筆を揮った。
兄は、生物学者(進化論・優生学・蛔虫学 等)の小泉丹(まこと)

(写真は、明治四十五年正月、白樺新年会の時。満25歳。)
 調布市武者小路実篤記念館蔵 ※無断複写・転載禁止


小泉鉄が、白樺派離脱後に成し遂げた業績。それが、台湾原住民の人類学的調査です。
 彼の仕事は、専門家からは、どのように評価されているのだろうか…?その事が知りたくて、関係資料を検索していましたら、ありました。日本順益台湾原住民研究会から出された、『台湾原住民研究概覧 日本からの視点』(2001年)です。 台湾原住民に関する調査・研究の歴史を詳細にたどった本で、発行も比較的最近のものです。この書を参照しながら、日本の〈台湾研究〉の歴史と、小泉の成した研究の意義について、少し見てゆきましょう。

かつて、台湾の先住諸民族は、十七世紀頃から清朝の統治下におかれていました。彼らは、次第に漢族(漢民族)に同化されていきましたが、それでも、影響を拒み続ける者たちも多く、やがて十八世紀に入ると、清朝に対する先住民反乱事件も起きるようになりました。

 清朝は、漢族の文化を比較的よく受容している先住民族を〈熟番〉(じゅくばん)、全く受容しない先住民族を〈生番〉(せいばん)と呼び分けました。漢風文化を受け入れない先住民たちが首狩りの遺風を伝えていた事も、こうした差別の一因であったようです。そしてこの〈生番〉たちの抵抗は、日本が台湾を領有した後(明治二十八年以降)も、引き続き重大な問題として残りました(なお、日本統治時代からは、「蕃」の字をあてた)。統治者にとって、“危険で野蛮な民”の実態調査は、急務だったのです。

 日本時代初期の台湾先住民族研究者としては、、伊能嘉矩・鳥居龍蔵・森丑之助らの名が挙げられます。彼らの仕事は、台湾研究史上だけでなく、日本の人類学史上においても、その嚆矢となるものでした。しかし、ただでさえ不案内な土地で、しかも先住民からの襲撃や熱病にかかる危険を冒しながらの調査行では、記録・採集という外側からのアプローチを試みるだけで精一杯だったようです。いきおい、研究は、物質と形質の方面に偏らざるを得ませんでした。 それに、彼らは、台湾総督府や東京帝国大学から派遣された人々。望むと否とにかかわらず、その調査結果は、〈統治〉という目的に回収されてしまいがちでした。
 その他、〈臨時台湾旧慣習調査会〉なども設置され、こちらは漢族も対象とした全体調査が行われたのですが、それも大正十一年で一段落。その後しばらく、台湾の民族調査・研究は停滞が続きました。

 その空白期間をうち破って現れたのが、小泉鉄だったのです。
 彼は、誰の依頼も受けず、大正十四年(1925)五月に、単身台湾に渡りました。
 『白樺』が関東大震災で廃刊となった、約二年後のことです。

実は、小泉は、一面で、法律学者でもありました。大正末、Henry Sumner Maine の "Ancient Law" (『古代法律』)を初めて和訳紹介したのは、彼です。
ですから、彼は、台湾研究史上においても、初めて、“今日でいう法社会学の立場から原住民社会の研究をめざした”人物として評価されているのです。事実、彼の用いる術語には、Maine の法理論やH.R.Rivers のメラネシア研究の影響から来たと思われる語が多いとのことです。

しかし、彼の研究には、そこから来る進化主義的影響の跡はきわめて希薄で、あくまで、実証主義的・社会科学的方法に貫かれているといいます。(これは、容易に納得できる事です。なぜなら、理想主義的共同体主義──エマーソンやトルストイ、ラファエル前派、ユーゲントシュティール、ゴッホなどに低通する思想──は、進化論の優勝劣敗的淘汰説とは対極にある思想で、その影響は、小泉と同じ白樺派だった武者小路や柳宗悦らにも見られるからです。)
 小泉は、“現代人がどこかで忘れてきてしまったものを、蕃人たちが持っている”と信じ、当時はまだまだ恐ろしい〈生蕃〉として武力鎮圧の対象と考えられていたタイヤル族やアミ族の集落の中に身を投じました。

 彼は、〈ガガ〉(ガガァ)と呼ばれる掟のあり方に着目し、“例えばタイヤル族にとって物を盗むという事は悪いことであるが〈罪〉ではない、盗品を返却すれば良いだけで贖罪の犠牲も儀礼も必要とされない、それは村落共同体としての〈ガガ〉において、基本的に私有財産というものが存在しないため”“〈ガガ〉における最も重い〈罪〉は性犯罪。特に異性キョウダイの間では、性の事について口にする事は重大なタブー”といった独特の規範を次々と発見してゆきました。

 原始共産主義の名残を感じさせるような伝統的社会規範や、あくまで人倫を重んじる禁欲性。もしかすると小泉は、そのような先住民の生活の中に、来るべき〈人類〉の理想社会創造の夢を重ねていたのかも知れません。

小泉の理想は、先住民の立場からすれば、あるいは見当外れの夢想だったかも知れません。それに、彼が奥地に入ってもそれほど身の危険を感じずにいられたのは、やはり少なからず、この時期以前の〈武断政策〉(佐久間総督時代の原住民鎮圧政策・1902-1909)や数々の〈撫育政策〉の影響があったからだという事を、忘れることはできないでしょう。
 しかし彼は、少なくとも、先住民たちに直接、自分の理想主義を押しつけることはありませんでした。思うに、彼の研究の最も優れた点は、下の引用部にも見られるような、先住民に対する穏やかな視線と、相手の生活に対する理解とが、記述の中で渾然一体となっているところでしょう。

 私はこの日(※祭の日)招かれて行ったのであるが昔ならば絶対にそんなことは出来ないのであった。(中略)夕方の粟の種子蒔きの神事がすまなければ、同種族のものでもガガァの異ったものは足一歩も入れないのである。私などが昔知らずにでも入らうものならば、それこそ直ぐ様首がとんだかも知れないのである。然し今では日本人だけは木戸御免にしてゐるのだといふのではあるが、私は彼等の習慣を紊(みだ)し、神事を穢すことを恐れて暫らく躊躇した。然し駐在所の連中も出かけるといふので、私は遠慮しながら然し喜んで出かけたのであった。(中略)

 やがて茅の葉を輪にして地にさしたものが路傍に見える。私はその前に立って再び立ち入る事を躊躇してゐると、中から私を見付けた子供達はそこに集ってくる。彼等は今日限りと一張羅の蕃衣を着飾ってゐる。彼等は楽し気に微笑んでゐる。そして私に入れといふ。私は茅の仕切りをまたいでその中に入る。そして子供達の後からつゞいてゆく。最早私の来ることが解ってゐたのであろう。子供達は私を一軒の家の前に案内する。家の中から若い女が出て来て『おはいんなさいまし』と巧みな日本語で話しかける。私は『ありがたう』と返事して、家の中に降りてゆく。

 (中略)私の来た事が知れると男も女も大勢の人達が此の小さい家の中に集ってくる。彼等は皆御馳走を持ち運ぶ。鹿肉を粟酒のしぼり粕と塩とで水に漬けたものが一番の御馳走であり、彼等の最もの好物である。然もか(※原文のママ)その脂肪肉のところが上等らしく、私はそれをすゝめられるので口には入れたが中中にかみ切れず、それにたまらない臭い香がする。然し私はそれを二つ鵜呑みにする。その後へいろ/\なものが運ばれるが、何といっても一寸うまいのは粟酒ばかりである。然し彼等のそれらを喰べさせやうとする態度と好意とは全く無邪気な純粋なものであった。私は彼等を失望させたくないためにその幾つかを少しづゝ口に入れる。彼等は日本人のやうに拙いけれども喰べてくれといふやうなことは決していはない。大人が持って来たものを子供達が寄ってたかって『これおいしよ』『これ一番おいしよ』(※原文のママ)といって私の手に持たせようとする。大人達はそれを我が意を得たりといふやうな顔をしてみてゐる。
(「蕃郷風物」昭和五年五月 『蕃郷風物記』建設社 昭和七年 60〜62p)

 現地の子供に慕われる小泉。ぜんたいに、白樺派のメンバーは子供好きで、子供になつかれる事も多かったのですが、そんな若い時代の事も彷彿として来るようなシーンです。

『台湾原住民研究概覧』の「小泉鉄の研究」の項は、以下のように締めくくられています。

 (前略)彼ら(「蕃人」)の文化や社会が正当に理解され、彼らが正当なる地位に置かれることを求めるために『蕃郷風物記』は書かれたのであって、自分の研究のためではない、とまで小泉はいっている。小泉の研究には、つねにこの博愛主義と理想主義が貫かれており、それはそれでまったく素晴らしいことである。「蕃人」の文化や社会をよく理解せずになされている、当時の理蕃事業に対してもきびしい批判をくわえ、霧社事件の首謀者たちに深く同情・弁護の態度を表明した小泉の存在は、歴代の原住民研究者の中でも傑出した存在であった

 小泉は、『台湾土俗誌』の序文で、自らの台湾調査の成果をいつの日か総括し、それを理論的研究にまとめあげることを予告していたのであったが、残念ながら果たされなかった。どういうわけか、彼はその後、台湾研究から遠ざかってしまい、研究は永久に中断され、内地での戦災で資料類をことごとく失い、戦後は横浜に隠遁していたという。結局、小泉が精力的に台湾調査をおこなったのは、1925〜1928年のわずか4年間に過ぎなかったのであるが、それは想像もつかないほど密度の濃い、集中的なものであったようで、そのおびただしい報告論文や著作もまた、怒濤のごとく発表された後、永遠の沈黙に至ってしまったわけである。小泉鉄とは、奇跡のような研究者であった。(長沢利明)
(36p 太字は引用者)

 小泉が白樺派の一員であったことをあまり知らない、あるいは顧慮しない、他分野の研究者も、小泉の業績を(しかも今現在)このように再評価しているのです。私はそれを知って、たいへん嬉しく思ったのでした。

(by 銀の星 2003/08/04)