日下 言念(くさか・しん)  Episode-1

明治二十年〜昭和十三年(1887〜1938)

本名:正親町実慶(おおぎまち・さねよし)  雅号:青蜩(せいちょう)

父・正親町実正(さねまさ)、母・兎美子(とみこ)の次男。正親町公和は兄、園池公致は1つ年上の従兄。
はじめ、東京府立富士見小学校に入学。明治三十一年(1898・満11歳)から三年間、侍従職出仕として宮中に仕える。満14歳の時、学習院中等科に進学。同級の里見 弓享、田中治之助(雨村)らと親交を結ぶようになり、明治四十一年(1908)に回覧雑誌『麥』をはじめる。『白樺』にも、創刊時から参加。小説「給仕の室」等で文壇の注目を集めるが、大正二年(1913)以降、文筆活動から離れる。

(写真は、明治四十五年正月、白樺新年会の時。満24歳。)
 調布市武者小路実篤記念館蔵 ※無断複写・転載禁止


日下 言念こと正親町実慶のエピソードの一つめは、彼と写真についてです。

 彼が写真好きとなった背景には、主に、二つの要因があると思われます。

 一つは、アメリカでのロールフィルム方式写真機の発明に伴って、世界的に、写真材料と器具の大衆市場が急成長した事。日本においても輸入の数が増えましたし、同時期に、廉価版のチェリー手提暗箱(小西本店)も開発されました。要するに実慶も、時代の子として、また余裕ある家庭の子として、自然に写真に心魅かれたのだと考えられます。

 しかし、もう一つの伏線として、〈華族と写真〉の特別な関わりを見逃すわけにはゆきません。 実は、日本において、〈華族〉と〈写真〉との間には、浅からぬご縁があるのです。
 (なにしろ幕末にも、もうすでに、各地の大名が、藩士に命ずるなどして写真研究に着手していたという流れはあったのですが、その話はここでは措きます。)
 その最も早い例は、何といっても亀井茲明(これあき)伯爵。実父は、公家華族の子爵・堤哲長です。明治八年、15歳の時に旧津和野藩々主・亀井茲監(これみ)の養子になった茲明は、津和野藩出身の洋学者・西周(にし・あまね)から、多くの薫陶を受けることとなりました。
 西は、西洋絵画に関心を持つ茲明に、おおよそ、次のように語ったといいます。

 “あなたは華族に生まれたおかげで、自ら働かなくとも衣食は足りるし、社会的名誉も約束されている。されば、何か個人として酬われぬものに力を入れることこそ、皇国への奉公になりましょう。それも、実用の学は、自然報酬を伴いますから、それよりむしろ、あなたの心のままに、美術の学を研究おしなさい。これこそ、今日の日本にもっとも欠けた学問で、しかも、将来、根本的に必要な学問なのですから──”

 西周は、日本で最初に西洋哲学を翻訳し、〈美術〉思想を世に紹介した人物でした。そして茲明は、その西の教えを深く心に刻み、5年間のドイツ留学中、文字通り、西洋の美術研究に没頭したのです。
 その研究中の一環をなしたのが、当時最新の写真術でした。その時代、写真は、真実をありのままに写しとどめる事の出来る、人類初の記録テクノロジーとして重要視されていたのです。茲明は明治二十六年(1893)、鹿島清兵衛らと協力して、初のアマチュア写真研究会〈大日本写真品評会〉を結成しました。華族だけの〈華族写真会〉が結成されたのもこの頃。一般庶民のアマチュア写真ブームより、先行すること10年でした。(なお、茲明は、日清戦争で日本初の従軍写真家となり、ここでも自らの技術を駆使しましたが、戦場ですっかり健康を損ない、明治二十九年に35歳の若さで死去しました。)

 〈華族〉とは、社会の中で何をしなければならないか、何を学べばよいのか。そのような階級者としての自覚と〈美術〉思想、そして〈写真〉とは、明治初期においては、非常に近接した関係にあったのです。さらに、正親町家という家柄は、公家華族の中でも、とりわけ先鋭的な自覚を持ち得た一族でした(「白樺派on the street」(6)参照)
 そのような環境の中にいたわけですから、実慶の周囲にも、写真に強い関心を持った人がいたとしても、おかしくはありません。きっと、親戚の中に、早い時期から写真機を手に入れたり、写真研究会に出入りしていた人がいて、それで実慶も、見よう見まねで写真に手を染めるようになったのではないでしょうか。明治二十年代から三十年代にかけて、やはり、輸入機材は非常に高価でしたから…。私は、そんな風に想像してみたりするのです。本当は、実慶自身の回想など、もっと直接的な手がかりが見つかるとと良いのですが。

しかし、一世代前と違って、実慶の青年期ともなれば、先に述べたように、カメラのハード面そのものが、親しみやすくハンディになりつつあった時代。人事自然の〈真を写す〉よりも、友だちとの思い出を写しとどめる方が、面白く感じられて当然です。
 実慶の撮った写真が、どれほど、友人たちにとっても大きな楽しみだったか。その様子を、明治四十二年の里見 弓享・中村貫之合作日記「七月」(※注1)の文中に垣間見てみましょう。鵠沼海岸での休暇のひととき、里見と中村は、宿に届いた実慶からの写真に大喜びします。(なお、彼らは21〜2歳頃です。)

 青蜩(せいちょう=正親町実慶)からの写真、園池からのハガキ家から二葉のハガキ、写真は激大のエキサイトメントを起した。争ふ様にして見合った。これは面白い、この山内(※里見)のつら!などと云った。 (七月二十七日)

 まアよく写(と)れてますねと(※宿の女中が)云って青蜩から送ってくれた写真の中の菅田と己(※里見)がマンドリンを持ってるのを見る。行坊(ゆきぼう ※有島行郎。里見の弟)がそれハ西洋の琵琶だよと云ふ。うそ、マンドリンですよ、(中略)

 ──この人はこゝに来た事のある人だが知ってるかいと云って志賀君の髯面(ひげづら)を指す。──はアどこかで見た様な方ね。お名前をうかゞへば直(ぢき)に知れるけど──志賀さんさ。──あゝ、えゝとこの方はね──青木さんが居る時分来やしなかったかい──いいえ、えゝと、さう/\武者さんと御一処でしたよ──武者小路さんかい。そりゃこっちのこの人だぜ──あらさうね、随分可笑しかったのよ、オイ武者こりゃどうとかかうとかだったね、なんて武者って随分おかしなお名前だと思ってたの。(中略)

 ──この貴下(あなた)は大変よく写って居ますよ──本物より余程いゝだらうと中村が横槍を入れる──さうね見合いの時はこの写真になさいよ──それぢゃアさうしよう──素人写真で此の位なら本物はどんなに立派だらうと思ふでせうよ。どなたが御写(おと)りになったの──こいつだ。こゝから面を出してる、と云って青蜩の皃(かお)を指す──この方はと……──そりゃ知るまい、こゝに一度も来た事がないもの──なんておっしゃるの──正親町──武者さんの処へいらっしった様でしたよ──さうかね、それぢゃアそりゃこいつの兄さんだ(後略) (七月二十九日)

 旅先の旅館で、女中さんまで一緒になって、写真をあれこれ手に取りながら、話に興じている様子が窺えます。その場にいない人をネタに思い出ばなしに花を咲かせたり、写真映りを見て勝手な冗談を言ったりしているさまは、まるきり今と変わりません。また、他人(ひと)の写真でも、見せてもらっていろいろ話を聞くうちに親しさ感が増すという点も、現代と同じみたいです。正親町実慶の撮ったスナップ写真は、仲間たちにとって、大事なコミュニケーションツールとなっていたのですね。

 なお、この時の写真が実際どのようなものだったかは詳らかではありませんが、当HP「石川啄木と同世代の青年たち(3)」で引用している写真は、実慶が、それからまたわずか3ヶ月ほど後に、上記の中で話題にあがっているのとほぼ同じメンバーを撮ったものです。

 

後年、『白樺』メンバーの中からは、他にも〈写真好き〉の名を残した人が、幾人か出ています。
 例えば郡虎彦は、ヨーロッパに渡ってから、ずいぶん写真に凝りはじめたようです。「あの面倒臭がりの郡が写真にとても熱心で、器械を二つも、持ってゐた。部屋をしめ切っては、自分で現像迄(まで)した。世の中にこんな面白いものはないなんかいって暗い部屋から出て来たことを思ひだす。」(「追憶」 郡虎彦全集別冊所収)と、三浦直介は記しています。
 また、この三浦直介にしても──これは現在、まだ未確認情報なのですが──昭和初期(九年頃)に、国際報道写真協会を設立し、会長となったらしいのです。同姓同名の他人という可能性もありますが、会長となった時期の歳の頃といい、渡欧して国際的な仕事をする機会が多かったらしい事といい、まるきりの別人とも言えない気がします。
 それから写真好きというよりは、若干、必要に迫られてかも知れませんが、小泉鉄も、台湾研究のフィールドワークの際には、自ら写真機を駆使して、現地の様子を写し留めています。技巧はありませんが、先住民の人々に正面から対峙する、誠実な視線が感じられる写真です。

 正親町実慶自身は、大正はじめに『白樺』メンバーから遠ざかり、実業界で激しい浮沈を経たあと、日本の戦時色が濃くなる前にひっそりと亡くなっています。
 しかし、後に写真に深く関わることとなった元同人たちの記憶の中には、はるか遠い青春の頃、友だちに先んじていちはやくカメラを手にし、みんなに向けてせっせとシャッターを切っては、手まめに写真を送ってくれていた〈青蜩〉の像が、ずっと共有されていた気がします。

(by 銀の星 2003/08/13)

注1:回覧雑誌『麥』の同人だった里見と中村貫之が、明治四十二年七月二十三日から三十一日まで、神奈川県藤沢の〈東屋〉という旅館に逗留した際に書き留めた合作の旅日記。この作品は、同年八月発行の『麥』第20号に発表。
  『雑記帖:里見 弓享 未発表原稿集』(かまくら春秋社 1985年)より引用

参考文献:柳田泉「伯爵亀井茲明の美術研究及び美術論」
     『織物:19世紀ヨーロッパの染織 亀井茲明コレクション』(美術出版社 1991年)別巻 113〜134p