賢治と夜空
─西洋星座図と曼陀羅とのあいだ─

by 銀の星(original:2002/10/26  改稿:2003/06/10)

※宮沢賢治作品からの引用文は、『校本 宮澤賢治全集』(筑摩書房)に依拠します。
 ただし、仏教用語などの難読語については、ちくま文庫版全集などを参考にして、筆者がよみがなを振りました。

(1) はじめに
(2) 「なめとこ山の熊」

 

(1)はじめに  

 〈賢治と星座〉といえば、多くの方が、まず真っ先に連想するのは、『銀河鉄道の夜』だと思います。

 あのお話の中には、星座の図のイメージが三回出て来ます。学校・街の時計屋・そしてカンパネルラの持っていた〈星の地図〉。 中でも〈星座図〉の持つ不思議感を端的に表しているのは、時計屋での描写でしょう。   

…いちばんうしろの壁には空ぢゅうの星座をふしぎな獣や蛇や魚や瓶の形に書いた大きな図がかかってゐました。ほんたうにこんなやうな蝎だの勇士だのそらにぎっしり居るだろうか、あゝぼく(※ジョバンニ)はその中をどこまでも歩いて見たいと思ってたりしてしばらくぼんやりと立って居ました。

 夜空の中には、目には見えないけれど、勇者や神々や不思議な獣たちがたくさんいる。賢治を、最初にそんな幻想にさそったのは、西洋の〈古星図〉だったと思われます(※講座資料では、16世紀の西洋古星図を引用)。おそらく、こういう星図を初めて知った時には、賢治自身も、ジョバンニとまったく同じように感じたことでしょう。

 そのほか、「よだかの星」にもオリオン・大犬座・小熊座・鷲座といった星座の名前が出てきますし、「双子の星」には、さそり座とからす座がキャラクターとして登場します。また、有名な「星めぐりの歌」も、〈小ぐま座〉という天の北極を中心に、さそり─鷲─こいぬ(たぶん大犬)─りゅう─オリオン─アンドロメダ─大ぐま座と、天空の四方にある星座の、そのめぐりを表したものです。

 あかいめだまの さそり
 ひろげた鷲の  つばさ
 あをいめだまの 小いぬ、
 ひかりのへびの とぐろ。

 オリオンは高く うたひ
 つゆとしもとを おとす、
 アンドロメダの くもは
 さかなのくちの かたち。

 大ぐまのあしを きたに
 五つのばした  ところ。
 小熊のひたひの うへは
 そらのめぐりの めあて。
 (「双子の星」より)


 こういう部分を見ると、宮沢賢治というひとは、ごく現代的な意味での〈天文ファン〉だったと、そんな風にも感じられることと思います。

 ところが、一方、賢治には、そういう西洋天文学で割り切れないような想像力、もっと言えば〈幻視の力〉のような能力も備わっていました。 例えば、〔温く含んだ南の風が〕(春と修羅第二集 一五五)という詩の一部をごらん下さい。(※右側カッコ内は詩句に対応する星座名)

 北の十字のまはりから        (白鳥座)
 三目星(カシオペーア)の座のあたり (カシオペア座)

 天はまるでいちめん
 青じろい疱瘡にでもかかったやう
 天の川はまたぼんやりと爆発する
 (中略)


 天の川の見掛けの燃えを原因した
 高みの風の一列は
 射手のこっちで一つの邪気をそらにはく (射手座)

 それのみならず蠍座あたり       (蠍座)

 西蔵魔人の布呂(ふろ)に似た黒い思想があって
 南斗のへんに吸ひついて          (射手座)

 そこらの星をかくすのだ
 けれども悪魔といふやつは、
 天や鬼神とおんなじやうに、
 どんなに力が強くても、
 やっぱり流転のものだから
 やっぱりあんなに
 やっぱりあんなに
 どんどん風に溶される
 星はもうそのやさしい面影(アントリッツ)を恢復し
 そらはふたゝび古代意慾の曼陀羅になる
 (後略)

 多分、実際は、夜空に雲がかかって暗くなり、また風に流されて明るくなった、ということだったと思います。しかし賢治は、そこにチベットなど西域の魔神伝説や、曼陀羅の図を見てしまう。もしかすると彼の心の瞳には、カシオペアや射手や蝎などのギリシャ神話のキャラクターと、古いシルクロードの神々や菩薩たちが、互いに姿を変えながら、それこそびっしりと夜空を埋め尽くしているのが見えたのかもしれない、そんな事さえ空想させるような作品です。  

 宮沢賢治が夜空に思い描いたものは、いったいどんなイメージ世界だったのか。そのような事を中心に考えながら、中でも、天体の運行に関するモチーフを幾つか取り上げて、賢治作品の神秘に踏み込んでみたいと思います。

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(2)「なめとこ山の熊」

 それでは、星々をアンドロメダや蠍座などのいわゆる〈星座〉として結ぶこと以外に、賢治は、どんな星の見方をしていたのでしょうか。

 賢治ファンの方ならば、「なめとこ山の熊」はご存じの方が多いと思います。熊撃ちの狩人の小十郎が、熊との様々な感情の交流を重ねながら、最後には熊の手によって死んでしまうという物語です。

 ところで、あの作品に出てくる星空には、ちょっと変わったところがあったことに、お気づきの方はいらっしゃるでしょうか?

 あの中の夜の情景で印象的なのは、熊の親子のシーンと、小十郎が死んだラストシーンの夜空です。どちらも美しい星月夜の場面なのですが、ここでどんな星座が出ていたか、という事については、とっさに思い出せない方も多いのではと思います。なぜなら、その星々は、昔の呼び方で呼ばれているからです。

 月の光が青白く山の斜面を滑ってゐた。そこが丁度銀の鎧のように光ってゐるのだった。しばらくたって小熊が云った。 「雪でなけぁ霜だねえ。きっとさうだ。」 ほんたうに今夜は霜が降るぞ、お月さまの近くで胃(コキエ)もあんなに青くふるへてゐるし第一お月さまのいろだってまるで氷のやうだ 小十郎がひとりで思った。

* * * * *

 とにかくそれから三日目の晩だった。まるで氷の玉のやうな月がそらにかかってゐた。雪は青白く明るく水は燐光をあげた。すばるや参(しん)の星が緑や橙にちらちらして呼吸をするやうに見えた。
 その栗の木と白い雪の峯々にかこまれた山の上の平らに黒い大きなものがたくさん環になって集って各々黒い影を置き回々教徒の祈るときのやうにぢっと雪にひれふしたまゝいつまでもいつまでも動かなかった。そしてその雪と月のあかりで見るといちばん高いとこに小十郎の死骸が半分座ったやうになって置かれてゐた。
 
思ひなしかその死んで凍えてしまった小十郎の顔はまるで生きてるときのやうに冴(さ)え冴(ざ)えして何か笑ってゐるやうにさへ見えたのだ。ほんたうにそれらの大きな黒いものは参(しん)の星が天のまん中に来てももっと西へ傾いてもぢっと化石したやうにうごかなかった。

 まるで、冬の晴れた夜のしばれた空気さえ伝わってくるような描写です。
 この箇所での星座は、胃(コキエ)、参(しん)、それに〈すばる〉です。すばるは、今はプレアデス星団として知られていますが、昔は昴宿(ぼうしゅく)といって、東洋星座の一区分をなす〈宿〉でした。
 山の狩人である小十郎には、星々がギリシャ神話の神々に見えてしまうはずはありません。作者・賢治はさり気なく、しかし細心に、小十郎のまなざしに寄り添っているのです。

 そもそも星々を〈宿〉で区分するのは、遠くインド、または古代中国を起源とする〈宿曜道〉(すくようどう)の発想です。日本には平安時代に空海がもたらしたと伝えられ、密教思想と深い関わりがあります。

 今、西洋占星術でお馴染みのあの十二星座──牡羊から魚まで──は、太陽の通り道・黄道のルートに位置する星座ですが、〈宿曜〉の宿も、それとほぼ同じルート上にあります。ただし、宿曜の方は、同じ星々を、月の満ち欠けのサイクル二十八日で分けているのです。そして東洋では、その二十八宿の方を占いに用いていました。

(図2:筆者自作。見づらくてすみません m(_ _)m  ※なお、星々の結び方は、西洋星座図に依っています。)

 二十八宿は、だいたい十二星座に添っていますが、ところどころ、その上下の別な星座を用いている部分があります。ちなみに、二十八宿によりますと、〈コキエ〉の胃宿(いしゅく)は牡羊座の東側の小さな三つの星、〈すばる〉の昴宿(ぼうしゅく)は牡牛座のプレアデス星団の部分、そして参宿(しんしゅく)はオリオン座の三つ星を指しています。  

 平安時代以来などというと、何か古めかしい思想のように思われるかも知れません。でも、実は現在でも、その名残は続いています。例えば〈宿曜道〉と切っても切れない縁の〈陰陽道〉──あの「陰陽師」の映画で一躍関心を集めましたが──節分、雛祭り、端午の節句、七夕などの日取りは、すべて陰陽道の思想で定められています。干支の十干十二支も、陰陽道に依ります。
 また、〈宿曜道〉は、月に関する行事と密接に結びついています。今は、太陽暦に日にちだけ当てはめていますので、行事と月の満ち欠けはズレる事が多いですが、現在でも地方によっては残っている旧暦での年中行事、あれはまさしく、〈宿曜道〉の思想にのっとったものだったのです。  

 宮沢賢治も、学校で天文学を学ぶ前には、花巻でのそうした習俗信仰に基づいて星々のありかを見わけていたのでしょう。次の、賢治の文語詩を御覧下さい。なお、〈庚申(こうしん)〉は‘かのえさる’の日ということですが、すばる星・昴宿の別名でもあります。

  庚 申
 歳に七度はた五つ、
 庚の申を重ぬれば、
 稔らぬ秋を恐(かしこ)みて、
 家長ら塚を埋(をさ)めにき。

 汗に蝕むまなこゆゑ、
 昴(ばう)の鎖の火の数を、
 七つと五つあるはたゞ、
 一つの雲と仰ぎ見き。

(現代語訳)
年に庚申さまをお祭りする‘かのえさる’の日は普通六回あるが、年によって七回や五回になる時は、稲の実りが悪い。
そうした秋の不作を恐れて、家長たちは庚申塚を祭ったのである。
家長たちは、農作業の汗で目をいためていたので、庚申さま(すばるの星々)を、七つとか五つ、
あるいはぼんやりとした一つの雲のようにしか仰ぎ見ることができなかった。

 日本の農民たちは、長い年月の間に、中国からわたってきた宿曜に、さらに、自分たちなりに季節毎の農作業の目安を重ねてきました。もういちど、黄道十二星座と宿曜二十八宿の図を御覧下さい。
 例えば、〈胃宿〉は、和名「コキエ=穀家(こくいえ)」といって、天の五穀をつかさどる宿ということです。また、参(しん)は〈カラスキ〉で、星々を鋤鍬をふるう人に見立てています。西洋星座では、オリオンの右側の腕と毛皮の垂れの部分とされているところでしょう。
 それから、スバルの語源は「統(す)まる」で、統一されるという意味でした。晩秋頃から夜空にきわだつ星だったため、古くから、農作物の収穫にむすびつけられていました。日本では、田の神さま、または山の神さまとしてあがめられていたようです。海辺では、イカ釣りに結びつける地方もあるそうです。

 おそらく、昔の日本では、星の見え方でその年の作柄を占ったりしたのでしょう。また、“カラスキが何時々々に見えだしたからそろそろ畑打ちだ”などという会話も、あったのかもしれません。
 昔、といっても、農村では、それはほんの四、五十年前まで脈々と受け継がれていた現実だったはずです。そして、そんな大人の会話を、幼い賢治も耳にし、夜空といっしょに記憶に刻んだのだと思われます。
 ただし、その意味では、先ほどの小十郎はマタギ(山の猟師)ですから、厳密にいえば里人の感覚とは本当は少し違っていたかも知れません。でも、作者・賢治が、里人・村人の方と感覚を共有していたことはよくわかります。

 生活感覚が違えば、宇宙観も、空の見え方も違う。「なめとこ山の熊」を書いた頃──農学校を退職して農村指導に生きようと決意していた頃の賢治には、それが実感的にわかっていたのでしょう。

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