賢治と夜空 ─西洋星座図と曼陀羅とのあいだ─

(4) 天空の曼陀羅
(5) 〈月天子〉信仰

 

(4)天空の曼陀羅

 さて、それから約五年、賢治は、短歌から、童話と口語自由詩へと表現形式を大きく変えてゆきます。そしてちょうどその頃から、彼の、天体を詠んだ作品は、見違えるほどに明るく美しくなります。

 例えば有名な詩集『春と修羅』の中の、「有明」という詩などは、その代表と言えます。

 起伏の雪は
 あかるい桃の漿(しる)をそそがれ
 青ぞらにとけのこる月は
 やさしく天に咽喉を鳴らし
 もいちど散乱のひかりを呑む
 (波羅僧羯諦 菩提 薩婆訶)(ハラサムギャテイ ボージュ ソハカ)
   (一九二二、四、一三)

 雪を染める朝日を〈桃の漿(しる)〉にたとえる比喩も新鮮ですし、〈青ぞらにとけのこる月〉にも、不気味さや怖さのかけらも見られません。朝日の桃の汁を美味しそうにのどを鳴らしてのむ月は、そのまま桃の汁にゆったりと溶けていってしまいそうなイメージで、これだけでも、まるで、独立した童話の一シーンのようです。
 しかも、最後の一行は「般若心経」の末尾の一節、いわば真言密教の呪文なのですが、それでいて少しも抹香臭くなく、この詩としっくり溶け合っているように感じられないでしょうか?

 ここに、当時の賢治の、〈宇宙(ユニバース)を見るまなざし〉が表れているように思います。
 ──朝日が射す、月が薄れる、いうなればそれだけのことだ。けれど、そこに美を感ずることこそ、まさしく、“御力(みちから)を讃うべき存在”がそこに存在する事の証しだ。──賢治は、そのように考えようとしていましたし、この頃はすでに、それがそのまま、かれのものの見方そのものになっていたと言えるでしょう。

 次の詩は、夜空の方に、その存在のしるしを見出そうとした一例です。

 一七九 〔北いっぱいの星ぞらに〕 一九二四、八、一七

 北いっぱいの星空に
 ぎざぎざ黒い嶺線が
 手にとるやうに浮いてゐて
 幾すぢ白いパラフヰンを
 つぎからつぎと噴いてゐる
 (中略)
 月はあかるく右手の谷に南中し
 みちは一すじしらしらとして
 椈(きく)のはやしにはいらうとする
 (中略)
 あゝ東方の普賢菩薩よ
 微かに神威を垂れ給ひ
 曾つて説かれし華厳のなか
 仏界形円きもの
 形花台の如きもの
 覚者の意志に住するもの
 衆生の業にしたがふもの
 この星空に指し給へ
 (後略)

 (春と修羅 第二集)

 この普賢菩薩は、法華経の〈勧発品(かんぽつほん)〉という巻に、世界が真に救済されるまでの間、悪魔から信者たちを守る頼もしい仏として登場します。密教の仏たちを描いた「胎蔵界曼陀羅」の中では、中台八葉院の東南の隅に描かれているそうです。まさしく〈東方の普賢菩薩〉なわけです。神々や龍を常に周りにしたがえ、諸国で奇跡をあらわし、そのゆく先々では蓮華の花びらが空から舞い落ちるという、実に絢爛なイメージの仏さまです。

図1:胎蔵界曼陀羅)

 〈仏界(ぶっかい)形円きもの/形(かたち)花台(かだい)の如きもの〉はやや難解ですが、曼陀羅に描かれた普賢菩薩が蓮の台にのっていることと、空から舞い落ちる蓮華、それに曼陀羅そのものが同心円的なことから、二重三重のイメージが込められた言葉だと言えるでしょう。

 そして実際、夜空の天頂付近は、北極星を中心として、りゅう座、大熊座、カシオペア座にケフェウス座…と、ぐるりと円形のめぐりがあるように見えます。もっと下方の、宿曜の星々(つまり十二星座)もまた一めぐりの帯です。賢治は、眼前に見る夜空に、祈りを込めて、自分の信仰を投影しようとしたのでしょう。

 こう言うと、単なる賢治の見立てのようですが、そうではありません。実は、曼陀羅自体、立派な天体図なのです。
 例えば、法隆寺には、日本に11世紀頃にもたらされたとされる、その名も〈星まんだら〉という曼陀羅図があります。真ん中に据えられているのは大日如来で、これが太陽の象徴です。続いて月の仏、太陽系の惑星の仏が周囲をとりかこみ、さらに二十八宿をつかさどる仏も曼陀羅の周囲を取り巻いている、というものです。
 面白いのは、牡羊・牡牛などの黄道十二星座の方もそれぞれ仏の姿になぞらえられて、同じ曼陀羅に描かれている、という事です。研究者によると、これはおそらく、それらの星座がかなり古い時期に、ギリシャからインドに伝わったことを示すものだろうということです。

 賢治自身は、熱烈な法華経信者でした。ですから、時々、彼はなぜ密教の呪文や曼陀羅のイメージを用いたのか、謎だと言われる事があります。しかし、曼陀羅に限っていえば、その理由は、それ自体が、賢治にきわめて豊かで魅惑的な宇宙の見え方を示すものだったからに他なりません。

 法華経にも曼陀羅はあるのですが、それは一種の護符と言いますか、文字ばかりのものです。
図2:日蓮宗の曼陀羅)
 あの、西洋の星座図の神秘さに匹敵するものをと考えると、それは胎蔵界曼陀羅の方が、はるかに図像として魅力的でしょう。

 もちろん曼陀羅図では、空における星の正確なありかはまったくわかりません。また、太陽や月や惑星が記されているからといって、正確な太陽系の図でもありません。それに、描かれている数百体の仏は、結局すべて中心の1体・大日如来の化身だとされている点、やはりきわめて観念論的です。

 しかし、およそ目にすることのできる天体のすべてが仏の具現であり、唯一無二の救済者の存在のしるしなのだと見る思想は、まだ若くて無力で、しかも他者の不幸に感じやすい賢治にとって、深い慰めだったことでしょう。反面、彼は、科学者として対象を分析する能力も高かったのですが、それでも彼のような青年が、いわば“この世に存在することの痛み”を堪え続けるには、理知の力だけでは足りませんでした。

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(5)〈月天子〉信仰

 ところで、折角曼陀羅に触れましたから、青年期の賢治には、一種独特の月信仰──というよりも、〈月天子(がってんし)〉への愛があったという事にも、少し触れておきたいと思います。

 賢治の詩作には、ほとんど日付がつけられているのは、よく知られています。そこで、私は、ふと思いついて、日付から、その日の月齢を調べて見ようと思い立ちました。その結果が、下の表です。


【宮沢賢治の詩と月齢】
(口語自由詩)
※月齢と月の形の目安  0=新月 7前後=上弦 15=満月 21前後=下弦
 なお、陰暦の名称と、月の見かけの形には若干のズレがあります。

タイトル
詩 集
日 付
月・夜空の描写
月齢
備 考
有明
春と修羅
1922/04/13
青空にとけのこる月
15.08
立待月
原体剣舞連
1922/08/31
こんや異装のげん月の下
8.77
東岩手火山
1922/09/18
二十五日の月のあかりに照らされて
26.77
風景と
オルゴール
1923/09/16
紫磨銀彩に尖って光る六日の月
5.75
上弦の月だが、見かけは半分より細い
風の偏倚
1923/09/16

研ぎ澄まされた天河石天盤の半月/
五日の月はさらに小さく副生し

5.75
上と同日
1923/09/16
沈んだ月夜が楊の木の梢に
5.75
上と同日
〔東の雲ははやくも蜜のいろに燃え〕
春と修羅
第二集
1924/04/20
おゝ天子 あなたはいま にはかにくらくなられます
16.32
居待月
先駆形「普香天子」
林学生
1924/06/22
(しかも 月よ あなたの鈍い銅線の 二三は人ももって居ります
20.02
〔温く含んだ南の風が〕
1924/07/05
天はまるでいちめん 青じろい疱瘡にでもかかったやう
3.39
弦月
先駆形 「密教風の誘惑」
薤露青
1924/07/17
薤露青の聖らかな空明のなかを
15.39
立待月
〔北いっぱいの星ぞらに〕
1924/08/17
北いっぱいの星ぞらに ぎざぎざ黒い嶺線が 手にとるやうに浮いてゐて
16.80
居待月
善鬼呪禁
1924/10/11
十三日のけぶった月のあかりには
12.78
小望月
発電所
1925/04/02
二十日の月の錫のあかりを
9.40
月齢と食い違う
〔つめたい風はそらで吹き〕
1925/05/10
銀斜子の月も凍って
17.52
寝待月
鉱染とネクタイ
1925/07/19
蠍の赤眼が南中し…青じろい浄瓶星座が出てくると
28.36
河原坊
1925/08/11
しづかに白い下弦の月がかかってゐる
21.72
暦の上では前日が下弦
〔あそこにレオノレ星座が出てる〕
詩ノート
1927/03/28
あそこにレオノレ星座が出てる
24.82
二十六夜

〔注記〕
 月齢は、原則として、詩に付された日付の翌日の深夜0時(つまり、当日から翌日へのかわり目)を採用した。
 これは、月を見る時刻が、大抵当日夕刻から深夜にかけてだと推測されるため。
 ただし、明らかに夜明け近くの情景の場合には、当日の深夜0時の月齢を採った。
 月齢算出ソフト…「陰暦Life Ver2.0」(ぷらいむ工房・シェアウェア)

 すると、夜空を描いた詩で、例えば〈二十五日の月〉とか〈六日の月〉のように月齢が書かれているものは、誤差がだいたい±1日位で、ほぼその日はその月齢どおりだという事がわかりました(「発電所」のみが例外。理由不明)

 これで、賢治詩の日付は、ほとんど、まさしくその作詩の日だということが証明可能となったのですが、それだけではありません。実は、星空を描いたものにしても、〈月〉という言葉をあまりはっきり出していなくとも、その多くが月齢15日前後、見かけがだいたい満月の日だということがわかったのです。
 そのほか、三日月前後の若い月の頃も、日付の例は2例と少ないですが、詩は4篇ほど創られています(1923年9月16日に3篇も創作)。それに対して、上弦・下弦などの欠けた月の日には、私の調べたかぎりで、詩作は少ない方だったといえます(注)
 きっと、賢治は、月が皎々(こうこう)と美しい夜には、殊に気分が高揚する人だったのではないでしょうか。輝く月を眺めながら月明かりの夜道を歩き回り、心の中では、幾つもの詩を謳(うた)い上げていたのでしょう。

 例えば、上で引用した〔北いっぱいの星空に〕も、月の形は書かれていませんが、この日は月齢ほぼ16日でした。そう思って読み直すと、“白いパラフィンを噴く”とか、“白い楢”“山が銀の挨拶を上流の仲間に抛げかける”といった表現は、月光がさやかに美しくあたりを照らしている様子を暗示しているのがわかります。
 またその意味では、先ほど挙げた「青ぞらにとけのこる月は/やさしく天に咽喉を鳴らし…」の「有明」という詩も、こうした賢治の、月信仰のヴァリエーションだったと言えるでしょう。ちなみに、「有明」の月齢は15日、見た目上はまさに満月でした。

 賢治は、月を“月天子(がってんし)”や“普香(ふこう)天子”と見て、心の内ではいつも恭(うやうや)しく、そして親しく呼びかけていたようです。この時期になりますと、少年時代の、あの禍々(まがまが)しく不吉な月のイメージは、まるでぬぐい去ったかのように表現から消えています。

 月天子は、密教の方では十二天の一人として、大日如来のまわりに描かれていますが、賢治のイメージは、そんな曼陀羅図よりははるかに明るい透明感に満ちています。

 (七四 普香天子)

 お月さま
 東の雲はもう石竹のいろに燃え
 (中略)
 また黎明のはじまりには
 二つの雲の炭素棒のあひだに
 黄いろの古風な弧光のやうに
 熟しておかかりあそばした
 むかしの普香天子さま
 あなたの近くの雲が凍れば凍るほど
 そこらが明るくなればなるほど
 あなたがそらにお吐きになる
 エステルの香は雲にみちます
 おつきさま
 あなたはいまにはかにくらくなられます

 この時代にアニメーションはありませんでしたが、〈アニメ〉を、本来の“生き生きさせる”という意味でとるならば、賢治は、まさしく、仏教や宿曜道の古いイコンやシンボルを、想像の中でアニメートさせていたと言えるでしょう。それが、彼独自のアニミズムの根源だったのだろうと思います。

 また、この、月を心から慕わしく思う感情をもう少しつきつめると、例えば「オッベルと象」で、白い象が「ああ、せいせいした。サンタマリア」と呼びかける感覚に直接つながるのではないかという気がします。

 昔の胎蔵界曼陀羅では中心者は太陽たる大日如来ですが、宮沢賢治にとっての夜空の曼陀羅の主役は、何と言っても月天子の方でした。彼にとっての夜空とは、星々が周囲の夜空を輝き彩り、月天子と共にめぐっている、というイメージだったのではないでしょうか。

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【画像】 ※無断複写・転載禁止

・〈HP〉はホームページの略

図1  極楽堂(仏壇仏具・寺院用品)HP http://www.interq.or.jp/earth/gokuraku/ より
〈曼陀羅の間〉

図2 図1に同じ


【注】
〔宮沢賢治の詩と月齢〕(口語自由詩)について

対象は、〈詩ノート〉等も含めて賢治の口語自由詩すべてとした。
ただし、夜の情景を描いた詩すべてを取り上げたのではなく、文中の表現から、直接眼にした実景をもとに書いたと推察される詩に限った。
結果は下記の通り。

●表に取り上げた詩の数…17篇 (うち、同日の作詩3篇)
 →日付の数=15例

月齢0〜5(三日月前後)    日付2例 作詩4篇
  6〜11(上弦頃)       2例   2篇
  12〜17(満月前後)     6例   6篇
  18〜23(下弦頃)      2例   2篇
  24〜28(新月近く)     3例   3篇