心のスナップショット ─石川啄木と同世代の青年たち─

【2.新体詩人時代の啄木】
1)同世代人にとっての啄木 ─小泉鉄の一文から─
2)『明星』の啄木と少年読者たち
  ・三浦直介・郡虎彦・園池公致
  ・啄木の美文
  ・小泉鉄
  ・詩の表記の美しさ
3)早熟のイラストレーター・児島喜久雄

【新体詩人時代の啄木】

1)同世代人にとっての啄木 ─小泉鉄の一文から─

 さて、高校教師を退職し、釧路から戻って以降、私は、研究テーマを、宮沢賢治へ、そして明治の芸術運動へと移して来ました。そして、啄木のことは、いつしか忘れておりました。

 しかし、最近になって、ふと、〈啄木〉の事を思い出させてくれる文章に出会いました。それは、こんな一文です。

○この頃好く人が死ぬ。今の歌をやる人のうちに好きな人が殆とないなかで僕の好きだつた啄木といふ人が死んだ。お気の毒なことをしたと思ふて居る。
○見たことも、会つたこともないけれど、僕には何処か懐しい人だつた。(マガネ)
「編輯室にて」 『白樺』Vol.3-No.5 明治45年5月)

 署名の〈マガネ〉は、小泉鉄(こいずみ・まがね)という人物です。(左・図1

 小泉鉄は、現在では名が埋もれてしまっていますが、『白樺』での活躍は長く、創刊から終刊時まで、フルに執筆していました。この長さは、ゆうに、武者小路実篤や柳宗悦に匹敵します。小説も書きましたが、海外の芸術家の著作の翻訳も多く、ゴーギャンの「ノア・ノア」を最初に世に知らしめたのは、彼の功績です。その一方、編集業務にも力をつくし、縁の下の力持ちとして『白樺』を支えました。
 その小泉鉄が、啄木が亡くなってすぐに、その死を悼むコメントを編集後記に書いている。しかも、形式的なお悔やみ欄などではなく、同人が自由に近況などを書き込む欄に、です。

 小泉鉄は、どうして、啄木のことを、“何処か懐かしい人”と思っていたのだろう?……それが、私が最初に抱いた疑問でした。

そもそも、石川啄木と白樺派とは、私の中では、あまり結びついていませんでした。漠然と、啄木は、白樺派より一世代か半世代くらい上の人物のように考えていたからです。
 その思いこみの理由のとして、啄木がデビューしたのが『明星』誌上だったという事も、一つ挙げられます。『明星』は、『白樺』に先行すること十年の雑誌だったからです。

 でも、生まれ年を調べてみると、啄木は明治19年(1886)2月生まれ、小泉鉄も明治19年の12月生まれですから、二人はまったくの同い年なのです。ちなみに、武者小路実篤が明治18年、同じ白樺派で歌人の木下利玄が19年生まれ。他の同人も、ほぼ、その上下4〜5年の年齢幅の中に収まっていますから、啄木と白樺派とは、完全に同世代だったわけです。

 ──生まれ育った地方も、作品の傾向も全くちがう。しかし、同じくらいの年に生まれ、育つ過程で享受してきた文化が共通しているのなら、精神の接点がどこかにあっても不思議はないだろう。片方が出来なかったことを、片方が実現している、そんな関係もあるかもしれない。──私はそう考えて、考察の一つのとば口を見つけたように思いました。

2)『明星』の啄木と少年読者たち

 さて、ここで再び申しますと、岩手から上京した石川一(いしかわ・はじめ)が、〈石川啄木〉という名でデビューしたのは、明治36年の『明星』誌上でした。

 これが実は、白樺派との関係を考える上では、非常に重要なファクターなのです。なぜなら、のちに白樺派となる学習院の青年たちと、『明星』という雑誌は、一般に思われている以上に、密接な関係にあったからです。

〈三浦直介・郡虎彦・園池公致〉
 例えば、初期の頃の同人で、三浦直介(みうら・なおすけ)という人物は、同じく同人の郡虎彦(こおり・とらひこ)(筆名・萱野二十一(かやの・にじゅういち))の事を書いた回想文の中で、このような思い出に触れています。

 郡との附合の初めは宗教談であった。高尚めいて恐れ入るが、それ程でもないのである。中学の上級近く、尤も郡の方が一級下であったが、或る日東宮御所の前を行きつもどりつして二人で話した。郡が「例へば華厳の瀧、あれをみて荘厳といふ感、これは否めないと思ふ」といった。私は新しい友を得たのが何よりうれしかった。
 それからよく一緒にベースボールなんかして遊んだ。(中略)
 それから晶子の歌なんか口づさんでは西洋蓮華の咲く草原に坐って月なんか眺めた鼻持のならぬ時代があったが、そこはカットして、次にうつる。
(三浦直介「追憶」 ※注1

 三浦直介は、かなり照れくさそうです。確かに、いかに“紅顔の……”と言えば言えそうな十代の少年期とはいえ、こんな風に、モロに詩の挿絵のような世界にはまり込んでいた自分たち自身の姿を思い出したならば、気恥ずかしくなって当然です。
 でも、そうした、明治の少年の心をひきつける魅力を、その頃の与謝野晶子の作品が持っていたというのも、また事実でしょう。
 まだ遊びたい盛りで、だけど多少は大人っぽい本も読んでみたいし、友だちと難しい話もしてみたい。そんな年頃の少年たちにとって、与謝野晶子の詩のロマンティックさは、魅惑的な大人の香気と感じられたのだと思われます。

 それから、やはり同人の一人・園池公致(そのいけ・きんゆき)も、京都旅行に出かけた際に、わざわざ、与謝野晶子の作品に登場する宿に立ち寄ってみたりしています(当時24歳)

 これも園池の噂である一ト月程前京都へ行ってゐた時、三本木の何とかいふ宿屋へ泊った。
 三本木といふ地名は晶子女史の「舞姫」に、「三本木のお愛様へまひる」としてあるので彼は殊に好きだった。
 御給仕に出てゐた宿の娘に彼はいつか此お愛様の噂をした。所が其人が耻(はずか)しさうに「お愛は私で厶(ござ)います」と云ったさうだ。
 嘗つて鴎外先生に鴎外先生の噂をして「私が森です」と云はれて、驚いたのも園池である。此時も恐らく其時と同じやうな心持がしたらう。
 持ってゐた白樺などは贈ったさうだ。
「毎日お愛様の御給仕では相済まんやうな気がする」と其時の端書にこんな事を書いて来た。
(「編輯室にて」 『白樺』Vol.1-No.9 明治43年12月)

 こうしてみると、少なからぬ数の〈白樺〉メンバーが、少年期に、与謝野晶子を愛読することを共通体験としていたことがわかります。 晶子の歌にあまりのめり込まなかった武者小路などは、むしろ毛色の変わった方だったでしょう。彼らの傾倒ぶりは、いうなれば、現代の若い男の子が、思春期の一時期に、繊細な少女マンガの世界に魅かれるのと似た感覚だったと思われます。
 また、その意味では、好む好まないは別として、『明星』等で活躍していたその他の抒情派新体詩人、馬場胡蝶(ばば・こちょう)や蒲原有明(かんばら・ありあけ)・薄田泣菫(すすきだ・きゅうきん)などの名も、彼らの目には親しかったことでしょう。彼らの中には、例えば有島生馬や里見 弓享などのように、若い頃には新体詩を試みていた人たちもいた位なのですから。

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〈啄木の美文〉
 このような背景を考えると、その『明星』誌上で鮮烈なデビューを遂げた〈啄木〉の名が、彼らになんらのインパクトを与えなかったとは、逆に思えません。

 例えば、はじめて〈啄木〉のペンネームで掲載された〈愁調〉という詩は、このようなものです。

   一 ──杜に立ちて

 秋去り秋来(く)る時劫(じがふ)の刻(きざ)みうけて、
 五百秋(いほあき)朽ちたる老杉(おいすぎ)、その真洞(まほら)
 黄金の鼓(つゞみ)のたばしる音伝へて、
 今日また木の間をすぐるか、木枯し姫。
 運命狭くも悩みの黒霧落ち、
 陰霊(いんりゃう)生命(いのち)の重痛(いたみ)にうめく如く、
 梢を揺りては遠のきまた寄せ来る
 無間(むけん)の潮(うしほ)に漂(たゞよ)ふ落葉(おちば)の声。
 あゝ今来たりて抱けよ、恋知る人。
 流転(るてん)の巨濤(おほなみ)すぎゆく虚(うつろ)のみち、
 戦げる木の葉ぞ幽かに落ちて咽(むせ)ぶ。──
 驕楽かくこそ沈まめ。見よ緑の
 薫風いづこへ吹きしか。胸燃えたる
 束の間、げにこれ貴き愛の栄光(さかえ)
(『明星』卯歳第12号 明治36年12月 啄木・満17歳)

 ホームページでは、ルビ表現などに制限があり、この詩の文面の美しさを充分にお伝えする事ができないのが残念です。

 それにしても、こんな華麗な文章は、当時の白樺派は書けませんでした。第一、まだ〈白樺派〉なるものが、この世に存在しません。せいぜい、のちにそうなる彼らのうちの何人かが、校友会雑誌に寄稿しはじめたに過ぎませんでした。また、それが普通の十七、八歳の水準でしょう。

 もっとも、“誰も書けなかった”と言えば、あの三浦直介の友だち・郡虎彦が憤慨するかも知れません。郡虎彦は知的に早熟で、まだ10代に入ったばかりの頃から、こなれた美文が書けた人でした。学習院の人たちもその文才は認めていて、「志賀や僕には文学をやる才がないと云って文学をやることに反対した連中も郡の文学をやることには賛成してゐた」(武者小路実篤「郡虎彦」 ※注2ということです。校友会雑誌からそのほんの一部をご紹介すると……。

昨日(きのふ)はもえて今日(けふ)はきゆ、定めなきは浮世の常と知らずや。喜ぶも悲しむも将(は)た楽しむも苦しむも、すべては夢ならずや。……
あゝ月の姿、波の響、そはつひに永遠(とことは)に変らじ。
されどされど、人世はつひに長(とこしな)へに変遷定めなき運命の神に弄ばされんのみ!?
(「須磨の一夜」 『輔仁会雑誌』第64号 明治37年12月 ※注3

 掲載時期は、〈啄木〉のデビューからほぼ1年後です。このように啄木の文章と並べて見ると、明治30年代の“文才に長けた少年”が、どのような文章を理想や規範としていたか、という事の典型がほの見えて、興味深いものがあります。なお、この時の郡虎彦は満14歳。文章は巧みですが、独自の特色が出るには至っていません。彼が雑誌『太陽』の懸賞小説に応募して入選し、若き新人作家の登場として話題になるまでには、さらに6年の月日を要しました。

〈小泉鉄〉
 それから、このページの最初で触れた、小泉鉄について。彼は、実は、白樺同人としては珍しく、学習院出身者ではありません。福島県生まれで、旧制会津中学から一高、東大と進学した人です。
 ですから、明治36年には、小泉はまだ、会津中学を卒業さえしていませんでした。もし当時、彼が福島で、すでに『明星』や『帝国文学』『太陽』などを読んでいたとしたら、おそらく〈石川啄木〉の活躍を、驚きの眼差しで眺めていたことでしょう。

 また、それは、可能性がないことではありません。なぜなら、『帝国文学』や『太陽』といった雑誌は、東北・山形出身の著名なジャーナリスト、高山樗牛が興した雑誌だったからです。
 樗牛もまた、典型的な、早熟の天才タイプの人でした。東京帝大在学中には23歳で小説『滝口入道』を発表し、一躍、文壇の注目を集めました。哀調を含んだ擬古文を駆使し、ある意味では、新体詩時代の啄木のような美文調の先駆者とも言える人です。明治35年の暮れに32歳で死去するという、短い生涯ではありましたが、その間の論壇・文壇での活動は、実に目覚ましいものでした。その名は、当時、東北の知識層の青年たちの希望の星だったのです。ですから、福島で上京・進学を目指していた小泉鉄のような青年なら、そのゆかりの雑誌を、少なくとも必ず一度は手に取っていたに違いありません。

 当時の雑誌は──私も『明星』の復刻版に目を通して確かめてみましたが──執筆者の年齢やプロフィール等については、いちいち紹介しないのが普通だったようです。ですから、学習院の生徒たちのような東京の読者も、小泉のような地方の読者も、〈石川啄木〉の年齢や、中学中退などといった背景は、知る由もありませんでした。彼らは、ただシンプルに、鉄幹・晶子や孤蝶・有明といった人々と肩を並べ得る新進の天才詩人が出現した、と感じたことと思われます。

* * * * * * * *

〈詩の表記の美しさ〉
 啄木の詩の斬新さは、何といっても、その表記の美しさにあります。 これも、残念ながらルビの配置の妙をお伝えすることは出来ませんが、敢えて1、2の例を……。

 落ち行く夏の日緑の葉かげ洩(も)れて
 森路に布(し)きたる村濃(むらご)の染分衣(そめわけぎぬ)
 涼風(すゞかぜ)わたれば夢ともゆらぐ波を
 胸這(は)ふおもひの影かと眺め入りて、
 静夜(しずかよ)光明(ひかり)を恋ふ子が清歓(よろこび)をぞ、
 身は今、木下(こした)の百合(ゆり)花あまき息(いき)
 酔ひつつ、古事(ふるごと)絵巻に慰みたる
 一日(ひとひ)のやはらぎ深きに思ひ知るよ。
 (「森の追憶」第1連  初出・『明星』明治37年1月 ※日本詩人全集8)

 ひとたび汝(な)が声心の絃(いと)に添ふや、
 地の人百(もゝ)たり人為(じんゐ)の埒(らち)を超(こ)えて、
 天馬のたかぶり、血を吐く愛の叫び、
 自由の精気を耀(かゞや)く霊の影を
 あつめし瞳(ひとみ)に涯(はて)なき涯を望み、
 黄金(こがね)の光を歴史に染めて逝(ゆ)ける。
 彫(ゑ)る名はさびたれ、かしこに、ここの丘に、
 墓碣(はかいし)、───をしへのかたみを我は仰ぐ。
 (「沈める鐘」三  初出・『時代思潮』明治37年4月 ※日本詩人全集8)

 非常に難しい漢字や熟語を使いながら、意味がルビと共に一目ですっと頭に入るよう、視覚的な配慮もしているように見受けられます。これが洋風のイラストといっしょに印刷されていたりすると、そのページが実にお洒落なのです。漢字やルビも、装飾の一種にみえるほどです。

 言いかえれば、啄木は、言葉の表記と、ページの割り付けやレイアウトに関して天性の感覚を持っていた、いわば活字雑誌時代の申し子だったといえましょう。単に“晶子・泣菫・有明の堂にいった模倣”だった(山本健吉)という類の批判は、当たっていないと思われます。のちの、短歌の〈三行分かち書き〉にしても、この、彼のレイアウト感覚を抜きにしては、その理由は説明し尽くせないと思います。

 こんなシャープな感覚を持った詩人・〈啄木〉が、岩手県出身の、17〜8歳くらいの青年だと知ったとしたら、同世代の読者たちは、殊に小泉鉄などは、どんなにびっくりしたことかと思われます。
 ただ、啄木が生きた短い間に、読者として、そういう背景を知り得る機会があったかどうか。もしかすると、啄木の死後に、様々な論評や回想・伝記等が出るまでは、知らないままだったかもしれませんが…。


3)早熟のイラストレーター・児島喜久雄

 ところで、この時期の白樺同人は、ほとんどが平凡な少年読者に過ぎませんが、中に一人だけ、まさに啄木デビューと同時期に、『明星』に絵を発表して、仲間を驚かせていた人物がいます。
 その人の名は、児島喜久雄です。後には美術研究家となりますが、当時は学習院の中等科に在籍中の、画家志望の少年でした。ちなみに、雑誌『白樺』創刊号の白樺の木の表紙絵、あの絵を描いたのがこの児島です。

 当時16歳で、まだ絵の先生の所に入門したばかりなのに、もう『明星』に投稿したイラストが何回も採用され、学習院の中でもちょっとした評判でした。

 「あんまりうまいので、驚いた。どう見たって大人のかいたような装飾画で、僕より若い少年がかいたものとは思へなかった。藤島武二が『明星』によく画を出してゐたが、藤島さんがかいたのだと言はれた方が、驚かない位、うまい画だった。」(武者小路実篤「追憶」 ※注4

「児島は子供から絵が上手で、『明星』によくカット絵を出したりしてゐる事は知ってゐた。中学の二三年で、藤島武二、長原止水などと肩を竝(なら)べて新しい傾向のカットを描いてゐる早熟さには驚いたものである。三宅克巳に水彩画を習ひ、上野の白馬会にも出品してゐた。」(志賀直哉「児島喜久雄の憶ひ出」 ※注5

 啄木と児島の作品が同じ号に掲載されたことは、私の見る限りでは、残念ながらありませんでした。しかし二人の作品は、どちらも、あまり間をおかずに、連続して掲載されています。こうした点を考えても、のちの白樺派の人たちが、当時の『明星』に無関心でいることなど出来なかっただろう、と思われます。

 なお、児島喜久雄は中等科卒業後、学習院から一高へと進学し、そこで小泉鉄と友だちになりました。『白樺』を立ち上げる時、かつての学習院時代の仲間たちのもとに、小泉をつれてきたのは彼だったのです。彼等のつながりは、意外なところで、『明星』投稿者が取り持った縁だったのでした。
(こぼれ話・「児島喜久雄は小泉鉄の叔父さん?」


【注記】

注1  『郡虎彦全集』別冊(創元社 1936年)19頁

注2  同上 1頁

注3  杉山正樹『郡虎彦 その夢と生涯』(岩波書店 1987年)45頁

注4  『心』第3巻第9号(1950年9月)67頁

注5  『図書』Vol.82(岩波書店 1956年7月)4頁

【図版】(※無断複写・転載禁止)

図1  白樺新年会(明治45年1月)の写真より引用 
   『写真に見る「実篤とその時代」 ─I 大正期まで─』(調布市武者小路実篤記念館 1999年)19頁
〔調布市武者小路実篤記念館所蔵〕