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〔白樺派と旅〕シリーズ

〈もうめんたリズム〉・関西道中
─志賀・木下・里見 『旅中日記 寺の瓦』の旅─ (その3)

written & illustrated by 銀の星 (2004/10/25 Up)

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【目次】(続き)

(7)利玄、〈舞妓さん〉との遭遇
(8)“女の子”って夢の存在?
(9)奈良・ひとときのイリュージョン
(10)猛烈!自然派婆(しぜんはばばあ)
(11)自然派作家〈山内先生〉

 

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※『寺の瓦』(『旅中日記 寺の瓦』中央公論社 昭和46年刊)からの引用において、末尾(志)となっているのは志賀直哉、(木)は木下利玄、そして(山)は里見 弓享(本名・山内英夫)の文章です。

(7)利玄、〈舞妓さん〉との遭遇

 さて、“旅は予定になんかこだわらない方がいい、だいたい木ノ(きの)は〈御見物主義〉なんだよ”──そんな風に志賀と里見に言われて、しょげていた木下利玄。そのうえ、京の都は折からの春雨。こんな天候では、楽しみにしていた金閣・銀閣行きもおジャンになりそうだし…。多分彼は、元気な二人のあとを、足取り重くついていっていたことでしょう。
 ところが、八坂神社をぬけて円山公園にかかるころには、春のしとしと雨もあがってしまいました。そして木下は、彼の人生ではじめての、とてもハッピーな出来事に出あうのです。それは…

 丸〔円〕山公園で木ノ君がヒキズリ相な長い袖をたらした友禅模様のに見返られたと云うてニコ/\して居られた、此奴後になり先になり可成の間出遇つた、木ノ君が「家へ帰(ケエ)るが嫌になつた」※注8と云はれはしまいかと心配した。 (山)(=里見)
(『寺の瓦』 三月三十日)

 八坂・円山・祇園──と、京都に土地勘がある人ならば、ピンと来るところでしょうが、やはり、この辺の事情の説明は、里見 弓享 の洒脱(しゃだつ)な語り口におまかせいたしましょう。

 清水の舞台から、濡色の赤松の美しさに見惚(みと)れ、三年坂をおりて、高台寺(こうだいじ)、八坂神社をぬけて、円山公園にはいる頃には、雲は切れないが、どうやら降りやんでゐた。待望の舞妓が、四五人ひとつれに、手をつないだり、放したり、笑い声をあげたり、だらりの帯に横揺(よこゆ)れを見せて逃げたり、追ひさうにして急によしたり、まるでそこをわが家(や)の如くに振舞つてゐる。

 いつとはなしに、一人おくれた木下が、無理にすまし込んだ顔つきで、われ/\の立ち止つて待つてゐるそばまで来ると、
「や、どうも驚いた」
「何が」
「あのなかの一人がね、露骨にこつちを見るわけぢアないんだけど、なんとなく僕を意識しながら、それで、表面さも無邪気らしくやつてるんだ」
「何も、ちつとも、驚くどころの話ぢアないぢアないか」
「驚くのはこつちだよ、──木ノスの、その自惚(うぬぼれ)の強さにね」
「そんなこたアないよ。……だつて、君、それア、なんだよ、……誰だつて驚くよ」

(『若き日の旅』五 ※改段落は引用者)

 舞妓さんにふり返られて「ニコ/\して居られ」る若者は、古今に珍しくはないでしょうが、それを言うのに「なんとなく僕を意識しながら、それで、表面さも無邪気らしくやつてるんだ」とは、木下もなんと虫のいいこと!そして、さらにその事を“驚いた”と自分でいってしまうのですから、さすがの志賀や里見もちょっと辟易(へきえき)「驚くのはこつちだよ、──木ノスの、その自惚の強さにね」となるのも、無理はありません。

 でも、おかげで木下は元気百倍。しょげた気分はどこへやら、「あれは、併し、どつちだらうね、祇園かしら、先斗町(ぽんとちょう)かしら」と、舞妓さんの話題に夢中。「それがわかりさへすれば、すぐにも逢ひに行きさうな顔つきをしてゐるね」とツッコまれても、「さうさ。それア無論、……僕一人ぢア、ちよつとひるむけど……」と、ひたすら素朴・まともに受け応えをしています。

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(8)“女の子”って夢の存在?

 こうした点だけ見ると、この木下利玄、いかにも単純な女の子好きといった感じです。でも彼が、女の子を一目みた(見られた?)だけで、これほどまでにハイになってしまうについては、実は深い理由(わけ)がありました。

 一つは、木下自身の生い立ちです。彼は、旧大名・木下家の傍系の生れでしたが、子細あって本家にもらわれて以来、母親をはじめ母性・女性と縁の薄い、特殊な境遇で育てられました。利玄が養子に出たのは4歳の幼さでしたから、普通、乳母や腰元がつきそわないはずはないと思うのですが、彼の後見人の判断で、なぜか、そういう役割の女性は身近に置かれなかったのです。(この辺の事情に関しては、当HP掲載「木精の詩(1)」の中でもう少し詳しく説明しています。

 もちろん、いくら小藩とはいえ、大名家のお屋敷に働く女性が一人もいなかったはずはありません。でも、そうした中にも、利玄が思い切り甘えたり、慕ったりすることが出来る相手は、ほとんどいなかったようです。そもそも、利玄にとっての木下本家は、“自分が生い立った家”というにはよほど殺風景な場所だったようで、この旅の数年後も、下のような短歌を詠んでいるくらいです。

冬来(きた)る 女気(おんなげ)のなき我が家の 紅きものなき室(へや)にぞ来(きた)
(明治43年12月『白樺』掲載)

* * * * * * * *

 それに、もう一つは、〈学習院〉という所の特殊事情です。
 戦前の学習院が男子校だったことは、割合知られています。しかし、初等科から高等科に至るまで──つまり6歳から20歳過ぎ(最大年限24歳)まで、完璧な男子校だった、という事については、あまり知られていないかもしれません。初等科から高等科まで、生徒も先生も、みな男性。何ともかとも、女っ気のない世界だったのです。この点は、木下だけでなく、志賀も、里見も、武者小路らも、皆同じ条件下で育ちました。

 ただし、学習院も、最初から男女別学方針をとっていたわけではありません。明治10年の開校当初は、女子も6歳から14歳までは一緒に学ぶ規則で、科目が、多少男子と違うだけでした。
 明治のはじめといえば、一番シンプルな形の男女平等思想が入りこんだ時期。それに、それまで教育制度がなおざりにされてきた旧公家系の華族にとっては、男女を問わず、子供の世代にきちんとした学問を受けさせるというのが最重要な課題でした。そうした様々な事情のもと、男女共学も、割合自然にスタートしたわけです。

 ところが、明治18年、時の昭憲皇后が、“女子には女子独自の教育を施す”という方針を打ち出しました。そのため、改めて〈華族女学校〉が別に設立される事となり、〈学習院〉の中から女の子はいなくなってしまいました。

 その直接の動機は、もしかすると、〈男女七歳不同席(男女七歳にして席を同じうせず)〉という古風な倫理観だったかもしれません。しかし一方、この頃には、当時の西欧で進められていたセクソロジー(性科学)のはしりが、次第に日本にも影響を与えるようになってきていました※注9。その学問の枠組みからすれば、〈男〉と〈女〉は自然性。性差は当然のものと考えられていました。そして、その発想自体は、日本でもほとんど変わりませんでした。
 ですから、日本においても、女性は女性、男性は男性で、それぞれの性質に特化した学問を受けられるのは、むしろ理想的な事だという感覚で受け入れられたようです。

 かくして、皇后様がヨケーな……もとい、新方針を打ち出したために、明治18年前後生まれの白樺同人たちは、“同級生の女の子”という存在に、まったく縁がなく育ってしまったのです。女の子と同じ教室にいた記憶があるのは、長与善郎のように、途中編入で学習院に入ってきた人たちだけ。男女別学は戦前は当たり前だったとはいえ、一般の子弟子女は、高等小学校までは大抵共学なのですから、学習院生は、異性経験という点では、庶民よりはるかに恵まれない状況にあったと言えましょう。

 現代でも、男子高出身の人たちは、大学で女子学生と一緒に活動するようになると、最初はあがったり、緊張してしまう事があると言います。小・中で共学を経験していてさえ、思春期に同じ年頃の女の子がそばにいないと、コミュニケーションのカンが狂ってぎこちなくなるもののようです。
 まして、ほとんど純粋培養的に男の中にばかりいた学習院の青年たちにとっては、恋の対象となる〈女の子〉なんて、夢のまた夢の、そのまた夢。だからこそ、ごくまれな偶然で、近所に可愛い姉妹がひっこして来たとなれば、少年期の武者小路のように全身全霊あげて夢中になってしまう、なんて事も起こるわけです。

 さらに言えば、武者小路の『お目出たき人』の冒頭部、「自分は女に餓えている」という独白も、別に性的な意味でばかり書かれたのではありませんでした。自分のアニマ(男性が女性に対して抱く理想像)を投影できる対象が、自分の周囲にはそれほどまでにも乏しかったのだ、という事の、一つの表白でもあるわけです。だからこそ『白樺』の友人たちは、その一文に驚くと同時に、そこに自分と共通するものを見いだして、その率直さに共感をよせたのでしょう。もっともこれは、もうすこし後(明治44年)のお話です。

 もちろん、学習院にも、中には、抜け駆けして華族女学校の催事をのぞきに行くようなヤカラもいたようですが、そこは世の常。ばれれば同級生や先輩に(時には後輩にまで)はり倒されるという、男社会の厳しい制裁が待っていたようで…。

* * * * * * * *

 お話を戻せば、そんな人生の諸事情が重なったせいもあって、木下利玄にとっての〈女の子〉は、ちょうど独りぼっちの頃の“赤毛のアン”が思い描く、〈空想〉の世界の存在のようなものだったのでしょう。
 それが、旅先の京都で、しかもとびきり華やかな格好をした女の子に直(じか)に出会えるなんて、まさしく夢のような経験だったわけです。まして、チラリとでも、相手が自分を見てくれた(らしい)!それは、天にものぼるような心地になるのも道理でしょう。

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(9)奈良・ひとときのイリュージョン

 ところで利玄には、この旅の中ではもう一回、女の子との“接近遭遇”のチャンスが用意されていました。きっかけは、志賀の心づかいです。

 それは4月3日、奈良での出来事。
 実は、この旅行に先んじて奈良を訪れた事があるという志賀は、その際に、奈良の大仏近くの〈五十二段〉の石段途中で、小さな巫女さんを見かけていました。年の頃はようやく12〜13歳くらいの、まだ母親に手を引かれるくらいの女の子。それでも、白い小袖に緋の袴で、お下げ髪の中ほどを奉書紙で包んでいる姿は、なかなかに可愛らしかったとか。(いかにも木ノス(木下の愛称)好みだな)と、その時から思っていた志賀は、今回はどうかして木ノに見せてやりたいと、辺りにそれとなく目をくばっていました。すると…

 すべり阪のなかほどで、突然、志賀が、
「おい、木ノ、ゐるよ、ゐるよ」
 見おろす猿沢の池畔に、白衣、紅袴の巫女が二人、洋傘(こうもり)に夕陽(ゆうひ)をよけながら立話をしてゐる。遥か対岸のことゆゑ、顔形(かほかたち)などわからないのだが、それでも木下は、白緑(びゃくろく)の柳と共に、池の面(おもて)にも影を落してゐる少女たちを飽かず見詰めて、暫し(しばし)がほどはものも得云はなかった。

(『若き日の旅』十)

 遠くからの、たった一目だけの巫女さんたちとの出会い。それでも木下にとっては、息をつめるようにして見守るほどの、宝石のように貴重な一瞬だったのでしょう。“洋傘はちょっと不似合いだな”と思っている志賀のこだわりなど、意には介しません。

「どうも併し、洋傘にやア弱つたな、──ならば、檜扇(ひあふぎ)でもかざして貰ひたいところを……」
「いや、僕アそんな贅沢は云はない。志賀が見た時のやうに、五十二段はおりて来ないでも、阿母(おつか)さんに手をひかれてゐないでも、よしんば洋傘はささうとも、こんな遠方からでも、たヾひと目、見たといふだけのことで僕ア満足するね」

(同上)

 いかがでしょうか?一目歩く姿を見たという、本当にただそれだけの事で、こんなに感動してくれるのなら、見られた巫女さんにしても(もしそれを知ったとしたら)女の子冥利に尽きるといったところでしょう。

 ついでに、その日の木下の日記の方も、そっとのぞいてみましょう。 その日の感動をどんな風に書いているでしょうか…。

 今朝興福寺の彼岸桜の下をくゞつて春日の方へ行く途中、待ちこがれた巫女が杉木立の間を忙〔急〕ぐのが見えた。志賀君の説によるとこの巫女は何でもお母さんにつれられて春の日のてる下を五十二段を下りて来可き筈なのに今日は杉の梢から洩る旭を蝙蝠傘によけながらサッサと春日〔神〕社の方へ急いで居た。

 志賀君は前にのべたやうな姿を期待して居たのだから失望して居たが吾人の眼からは中々可憐に美しく見えた。髪をお下げにして紙で巻いて白衣、紅袴、前にかゝつた歩きつきですぐ遠くへ往つてしまつた。その蝙蝠傘をさして急ぐ所が近世的でふれて居る、深刻だ。※注10 

 (中略・そのすぐ後の「自然派婆」の店にいた時)二人の巫女が午に迫る日を矢つ張蝙蝠傘によけて横町から突如として表はれたが石橋の上で二人互にお辞儀をして一人は猿沢の池の右へ一人は左へ共に柳がくれに見えずなつた。どうもそのお辞儀と後姿がほんとに可愛かつた。吾人は敢てお母さんにつれられるを要求せず蝙蝠傘をさすなと要求もせぬ、吾人には今日見た姿が大〔い〕に面白い。(木)
(『寺の瓦』四月三日 ※改段落は引用者)

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(10)猛烈!自然派婆(しぜんはばばあ)

 でも、世の中はやはりシビアなもの。夢と同じ数だけ、幻滅(ディスイリュージョン)もあります。女性の事だってその通りで、いくら旅先でも、愛らしい人とだけ出会えるとは限りません。時には、ぐっとどぎつい経験に出くわしてしまう事も……。

 これも奈良での、同じ4月3日の出来事です。
 この日、彼らはまず博物館で、十二神将の浮彫・興福寺の力士像・舞楽の古面などの鑑賞を堪能しました。外へ出ると、春日大社の周りはちょうど花見日和。大仏殿を拝観にゆくと、運悪く普請中で、大仏様の顔しか見られませんでした。奈良の〈ミルク・ホール〉で、パンに「鬢附(びんつけ)(※注11)のやうな牛酪(バタ)「蜻蛉印(とんぼじるし)の角砂糖の中心に、少しばかり珈琲の粉がはいつてゐるやつを、湯で溶(とか)しただけの飲料(のみもの)(『若き日の旅』十)という洋風(?)な軽食を済ませたあと、里見は、親友の園池公致(そのいけ・きんゆき)から頼まれたおみやげを思い出します。

 ──“戒壇院の四天王のうち、右に槍を突き、左を腰にあてがっている像の写真があれば”──

 園池公致(のちの『白樺』同人)は、友人の中では、木下利玄と肩をならべる京都好き。ただ、当時は病気がちで、この旅にも参加していません。でも、里見に、欲しい仏像の写真をくわしく頼んでいたところを見ると、もうすでに、京阪地方の仏像彫刻についての確固たる好みはあったようです。
 友だちの願いを叶えようと、里見が博物館前の茶店で聞いてみたところ、猿沢の池のそばに、今で言う仏教美術の写真ならば何でも揃う店があるという話。それは好都合と3人で立ち寄ったのはいいのですが、実はここが、大変な店で…。  

 店番をしてゐた五十格好の、でつぷり肥つた婆さんが、真鍮縁(しんちうぶち)の眼鏡越しにぢろりと見迎へて、
「いらっしゃい」
 故郷(くに)を出(いで)て、もちと大袈裟過ぎるが、いつかもう九日目、「おいでやす」に馴れた耳へ、いきなりこの関東弁は、ばかに歯切れよく、──それ以上、懐しくさへ聞きなされた。

(『若き日の旅』十)

 最初はちょっと思いがけなかったものの、言葉も同じ関東人だということで、お互い、次第に心やすい話しぶりになりました。実際、写真の品揃えは豊富だし、おみやげを買い揃えるのには申し分ない所だったはずでした。
 ところが、気安さが高じて、〈婆さん〉の口調が“べらんめえ”になって来た頃から、雲行きはあやしくなってきます。

「あ、あいつ、あいつ……」
 と、西陽(にしび)いつぱいの硝子戸のそとを通つてゐる同年輩の女を指さして、「あいつ、あんな面(つら)アしてるけど、あれで、琴を弾(ひ)かせたらうまいもんですぜ」
 すべてがこの調子で、言葉から、われ/\を同郷と心許してか、商売(あきない)などそつちのけに、関西、殊に奈良の悪口が始つた。べらんめえ口調(くてう)で、悪罵を極める……。

(『若き日の旅』同上)

吾々が写真を見てゐる間、奈良の悪口をいつてゐたがそれが済むと今度は自分の若い時分をどりのおさらひに先代小団次の狐六法を見て来て其引ツ込みをやつたものだ、これをかうやつて、此手をかうと、仕かたまでして見せる、中々うまいものだ。(中略)
それから、もらひ娘にをどりを習はせて、芸者屋を出させようと思つたといふあたりから話がチト、妙になつて、
此婆、「自然派婆」といふやうな仇名をつけられる一條、其派の作者、山内先生(※里見の事)に御願ひ致す事に致します。(志)

(『寺の瓦』四月三日)

 この女性、養女にした娘に芸者屋を出させようとするとは、どうやら、昔は粋筋(いきすじ)の一人でもあったのでしょう。まあ、この辺までは、かつての自分の自慢話で済んでいたのですが、3人の内の誰かが、「で、その人(養女)は?」とうっかり水を向けてしまったばかりに、〈婆さん〉の話は一挙に暴走!

此の娘と云ふのが藤間勘八とやらの弟子で、自分も教へてやつて、〔生(いけ)〕花が奥許とやらで茶の湯が何とやらだ相だ。
「其人は今何をして居るんだ」
「そいつがね、親爺とくつゝきアがったんだ」
三人が一寸びつくりして居ると益々まくしかけ〔たて〕る。

「私がどなつてやつたんで私の事を狂人(きちがひ)だつて東京の弟の処に云つてやつたんでさア。夫(それ)だもんで弟が東京に養生に来いと云つてよこしましたアね。私は家が代々狂人が多いので驚いて東京に行ってね、巣鴨の狂人病院に行って見てもらったらね、驚く位なら狂人ではない、夫(そ)んな事を云ふ奴の方が狂人だ、と斯う云ふんでせう。直ぐ帰つて来て見るとね、二人しやがつて枕をおつつけあつて寝てやがるんでサア……」(こゝいらは自然派作者の筆によつて大いに真を写して居る。)で、親爺も大いにいびられたものらしい、其娘をどこかへ隠してしまつた相だ。(後略)(山)
(『寺の瓦』同上 ※改段落は引用者)

 

 いくらうっぷん晴らしとはいえ、まだ年端もゆかぬ若者相手にこんな話をしなくてもよいものを、この〈婆さん〉、洗いざらいしゃべりまくったようなのです。
 “ようなのです”というのは、さすがに若き日の(山)こと里見 弓享 も、このとき聞かされた話のすべては日記に書きかねたようで、途中、適当にカットしているからです。それがわかるのは『寺の瓦』と『若き日の旅』と比較から。32年後、すでに中年の域に達した里見は、『若き日の旅』の方には、この時の〈婆さん〉の科白をもう少し詳しく書き込んでいます。とは言うものの、それでもなお、その一部は「帰って来てみると、真ッぴるま、××××××××××てやァがる」と伏せ字に(多分自主規制で)せざるを得なかったようですから…やはり“自然派婆”はスゴかった。(-_-;) 

 ただ、言葉の点でいえば、別にこの〈婆さん〉が特殊だったわけではありません。いったいに江戸時代は、近代以降ほど〈女言葉=女性らしくしとやか〉という理念に拘束されていたわけではなかったようです。特に庶民層の町娘などの言葉は、家庭環境にも依るものの、結構歯切れよく、時には男顔負けに啖呵(たんか)も切ったらしい事が最近の研究で明らかになってきています。この〈自然派婆〉の科白は、その説を、別な側面から証拠づけるものだったとは言えますが…。

 のちに〈白樺派〉となる青年たちは、当時ちょうど自然派(自然主義)隆盛の時期ということもあって、自然派の作品は、みな、よく読んでいた方でした。有島壬生馬(生馬)などは、わざわざ小諸に島崎藤村を訪ねていったくらいです(明治36年・満20歳頃)。しかし一方、自然主義のいわゆる〈無理想・無解決〉主義や、特に後期自然主義の露悪的描写には、同人の大半が反感を持っていたのも事実です。
 そんなわけで、彼らの会話で〈自然派〉と言えば、〈露骨(な事をする)〉という位の揶揄・皮肉なのですが、この奈良の店では、そのロコツにまともにぶつかってしまったというわけです。同じ日に、可憐な巫女さんにも出逢えば、〈自然派婆〉にも出くわすとは…一口に女性といっても色々いるもんだ、と、彼らには良き人生勉強になったでしょうか?

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(11)自然派作家〈山内先生〉

 なお、『寺の瓦』では、この〈四月三日〉の記述は、4月3日の夜から4月4日の朝までの間に書かれているのですが、この時の日記リレーの仕方が面白い。

 まず最初は木下利玄ですが、彼は、自分が美術史ノートをいっとき見失った事についてだけを書いて、写真を買いに行った段については触れていません。
 その次をひきとったのが里見(山内英夫)です。彼は冒頭で「二人が僕を目して自然主義作者であるとするからには僕も其気になっていつもは内面的に主情的に日記をつけてゐるが、今日は主智的に肉体的に日記をつけるんだ」と書き、いつもとちょっと違うという事をにおわせています。が、〈自然派婆〉については、一箇所で呼び名に触れたのみ。締めくくりに“自然派婆の事を大いに書くつもりだったが、疲れて体調が悪いので志賀君に頼む”としています。

 ところが、志賀も木下と同様、〈自然派婆〉についてはまったく触れません。そこで翌4日の朝、里見が「(以下四日の朝書く、今朝は肩は痛むが頭痛はやんだ)」として、〈自然派婆〉の店に入る段までを書き、志賀に渡しています。
 しかしまたもや、志賀は婆さんの自慢話の部分だけしか書きません。そして、「此婆、『自然派婆』といふやうな仇名をつけられる一條、其派の作者、山内先生に御願ひ致す事に致します」と、再び里見の方に廻してしまいます。 そしてその後に続くのが、上の章で引用した、里見が書いたくだりというわけです。※上記引用部

 要するに、当時は、まだ精神面ではかなりの「清教徒(ピューリタン)(『若き日の旅』十)だった彼らのこと。「あの婆さんはすごかったね〜」と話題には出しながら、いざ日記に書いておこうとなると、あまりのロコツさに、誰もすすんで書こうという者がなかったのでしょう。木下利玄は早々に逃げてしまうし、そもそも、繊細でロマンチックな作風を旨とする彼に無理強いをする者もない。
 となると、志賀か里見か、という事になったのでしょうが、里見だって婆さんのアクの強さにはいいかげん閉口しています。でも、里見がどんなにパスしても、志賀はやっぱり年上の強みか、途中まで書きさすと「こういう描写はやっぱり山内先生の筆でなくっちゃ」とか何とか言って押しつけてよこす……。そんな情景が、目に浮かぶようです。

 山内英夫。この前年(明治40年)の夏頃から、兄やその友人の志賀たちの影響を受け、少しずつスケッチ的な執筆を始めていました。明治40年12月の『輔仁会雑誌(ほじんかいざっし)(学習院の校友会雑誌)第73号で、〈伊吾(いご)〉の筆名で「黒」「乙馬鹿」の短編2作を発表し、創作デビュー。実はこれが『輔仁会雑誌』はじまって以来、初の“小説”掲載だったという、記念すべき足跡を残した人でもあります。※注12
 ゴーリキーやツルゲーネフ、モーパッサンなど、外国の小説を乱読していたためか、彼は比較的早くから、一種自然派的とも言えるような描写の才をあらわしていました。その事がすでに志賀の学年でも有名になっていたからこその、「其派の作者、山内先生に御願ひ致す事に致します」だったのでしょうが…。

 『白樺』誌上で筆名を〈里見 弓享〉と改め、やがて市井の人々の情感を描く事に抜群の才を発揮することとなった“山さん”ですが、こうした旅日記を見ると、実は先輩(悪友?)二人のおかげで、そうした作家の道に否応なく向かせられてしまった?という所だったのでしょうか。

(続く)

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【注】

8.河竹新七作「籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのゑひざめ)」の主役、佐野次郎左衛門の台詞。
(『寺の瓦』三月三十日・註7)

9.なお、西欧で〈セクソロジー〉という用語を初めてつかった学者はブロッホ(I.Bloch)で、1906(明治39)年の事とされる。しかし、それ以前から、医学・生理学・解剖学・遺伝学等の様々な分野において性(性差)の研究は進められてきていた。ちなみに、クラフト・エビングが『性的精神病質』(Psychopathia Sexualis)を著したのは、1886(明治19)年。日本では1894(明治27)年に『色情狂編』という題名で出版され、発禁処分にあっている。
(岩波講座・現代社会学10『セクシュアリティの社会学』6〜7p)

10.「自然派の作家たちが好んで使つた言葉に、「人生に触れて……」ゐるとかゐないとかいふのがあつた。「深刻」もやはり同じ口。それ等が、われ/\の間では、やゝ揶揄的に用ひられてゐた。」
(『寺の瓦』四月三日・註17)

11.「鬢附(びんつけ)」は〈鬢附油〉の略。日本髪を整えるための整髪料(木蝋(ろう)と菜種油が原料)で、今風にいえばヘアワックス。

12.なお、小説発表の2番手は、次の『輔仁会雑誌』第74号(明治41年)に「孤独」を発表した〈青蜩(せいちょう)〉こと正親町実慶(おおぎまち・さねよし)。後の『白樺』作家・日下 言念 (くさか・しん)である。里見と日下は同学年の親友同士だった。


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