共鳴する空間
―中戸川吉二と里見弴の北海道/東京― (1)
by 銀の星(Original:2006/03/25)
※本論は、『2006 資料情報と研究』(2006年3月刊)掲載文を底本としています。
但し、読みやすいように適宜改行・改段落を増やし、またHP上で表記できない旧漢字は常用漢字に直してあります。
なお、手書き以外のナンバリングされた図も、全て『2006 資料情報と研究』より引用したものです。
(二)中戸川吉二 ─異質性の融合
1.二つの領域
2.小説─東京─不良
左・里見弴 右・中戸川吉二 大正五年撮影 (日本近代文学館所蔵)
※無断複製・転載を禁ず
【中戸川吉二(なかとがわ・きちじ)】
明治二十九年(一八九六)北海道釧路区(現・釧路市)生まれ。十七歳頃より永井荷風・志賀直哉・里見弴等の小説を愛読。大正五年・二十歳の時に里見弴と知り合い、小説家として立つ事を決心。里見に兄事し、作品を発表しはじめる。代表作「反射する心」「イボタの蟲」「友情」など。
一時は新進作家として世の注目を集めたが、自らの結婚問題が起こった際に里見との意見のすれ違いを見、袂別。そのいきさつを長編「北村十吉」(大正十一年・一九二二)に記す。しかしその後次第に創作意欲を失い、大正十五年を最後に小説の筆を折る。その後は随筆・書評の方面で執筆活動を続けた。昭和十七年(一九四二)、四十六歳にて死去。
【里見弴(さとみ・とん)】
明治二十一年(一八八八)生まれ。小説家・劇作家。本名・山内英夫(やまのうち・ひでお)。有島武郎・生馬の弟。学習院の上級生だった志賀直哉らの影響を受け、少年の頃から文筆に手を染める。文芸誌『白樺』同人となり、創刊時から次々と小説・翻訳を発表し活躍するが、大正三年に『白樺』を離脱。小説の他、脚本、舞台演出、雑誌編集など多方面で活動を繰り広げた。
明治から戦後までの長きにわたって現役文士であり続け、晩年にはテレビドラマの脚本も手がけた。昭和五十八年(一九八三)九十四歳で死去。代表作「多情仏心」「安城家の兄弟」等。
(※本論における年齢は、基本的に満年齢で表記する)
1.はじめに 北海道と東京。あるいは、他の土地同士の対比でも構わない。現在は、何処も、前提抜きで同じ〈日本〉だと一括りにしても問題はないほど、景観的にも文化的にも均質化された空間となっている。しかし、十九世紀末から二十世紀の初め頃まではどうだったであろうか。 維新後、各地方は形式上同一の政府の下で治められることとなり、諸藩は解体された。各藩各州が〈クニ〉と呼ばれた時代は去り、公には、〈クニ〉とは国家(ネイション)を示す語となった。新政府の官吏や公立学校の教員など、過去にはなかった役職の人々が、出身地を離れて各地に赴任していった。海を越えた植民地にも、移動の人波は絶える事なく続いた。それらは皆、同じ〈日本〉の中で起こった出来事である。 しかし、当時の人々の感覚に即して言えば、それは、かつては考えられなかったほど多くの人間が〈他国〉にゆく時代になった、という事ではなかっただろうか。訪れる者、迎え入れる者、または旅先ですれ違う人々。彼等は、それぞれ異なる文化的背景を持ち、また異なる自然の景観、マチ・ムラ等の生活空間を、自分の原風景として胸に抱いていた。そしてめぐり逢い、時には相手の異質さに驚きや反発を覚えながらも、新しい関わりを築いていった。 中戸川吉二と里見弴。大正時代の約六年ほどの間、一方は相手を尊敬して兄事し、他方は、人生や作家活動の先輩として相手を導こうとした。〈日本〉の文学志望の若者が〈日本〉の小説家に憧れ、先輩作家の門を叩く。それは、かつての文壇にはよくありがちだった、当たり前の光景の一つに過ぎない。 しかし、そのような“当たり前”という前提から一旦離れてみよう。確かに、この二人は文体も作品の傾向も似ており、一見共通点が多い。だが、二人が各々若い感性を培ってきたのは、実は、同じ〈日本〉と言いながらも、その当時は似ても似つかない空間だったのではないだろうか。そして、その空間に即して育まれた認識力・世界観など、相手の有する異質性の方が、互いにとっては魅力だったのではないか。そのように考えた方が、中戸川吉二と里見弴の関係の本質は見えて来るように思われる。 彼等は、自分が生い立ち、あるいは経験した〈空間〉を、作品世界の創造にあたってどのように生かしているか。本論では、そこに重点を置きながら論を進めたい。また彼等は、その短い交流の間にも、互いの存在の影響を強く受けながら、数編の作品を創り上げた。本来の自分にはない要素を取り込みながら、彼等は、どのような新しい〈空間〉を創り上げたのか。両者の作品世界を読み解いてゆきたい。 |
明治三十年代から四十年代初めころに、少年・中戸川吉二が育ったのは、次のような空間であった。
海岸の砂濱ははてしなくつづいてゐた。一日馬で走つてみてもまだ先は同じやうな砂濱であつた。――今は、釧路市で築港工事をやつて居り、町名も内地風に變つてしまつたが、トンケシ、ベツトマイ、オタノシケなどといふ、アイヌ名の淋しい漁師町がボツボツと二里ほどもつづき、そこでいつたん漁師の家もなくなるが、似たやうな砂濱ははてしなく先へつづいてゐた。
どこまでも馬を駆る事が出来る、見はるかす限りの原野と海岸。それが、吉二の原風景だった。彼は親きょうだいと離れ、ただ一人、釧路の叔父の養子となっていた。当時、釧路の中心部はある程度〈町〉を形成していたが、叔父の家は「町はずれの畑の中」(中戸川「法要に行く身」大正九年)という、いわば外部との境界領域にあった。そして一歩外側へと足を踏み出せば、人間に名づけられた土地の方がごくわずかで、海辺に散在しているに過ぎなかった。あとはただ、草原と砂浜とが、圧倒的な広大さで広がっていた。(図2参照↓) * * * * * * * * 一方、里見弴が生い立ち、青春時代を過ごした〈東京〉という空間は、それとは或る意味で全く正反対の性質の場所である。 雜誌(『白樺』)の挿畫の原稿を持つて製版所や木版屋まで行くにも何んとなく一人で行くのが馬鹿々々しいやうな氣がして、いつも君(坂本。志賀直哉がモデル)と誘ひ合せた。よく日比谷公園の東南の隅に殘つた大きな木のある石垣の上などで待ち合せて一緒になつた。 木挽町の裏街にある木版屋を出て、祝橋を渡ると直ぐ左側に繁つた樫の若葉がうつとうしい梅雨の空氣に執拗(ひつこ)くも滲み込んで、惱ましいくらひ感能の亢奮を誘つた。私たちは泥濘(ぬかるみ)の道を傘を擴げたりつぼめたりしながら歩いた。 勞れ切つた躯(からだ)を狹い玄關口の雜踏にもまれながらやつと下足を取つて常盤木倶樂部の落語研究會を出るやうな時でも、直ぐには自家(うち)の方へ足を向けなかつた。日本橋の假橋の上へ立つて初夏の西日のなかで働いて居る石工や土工を、やゝ暫く眺めてから、魚河岸をぬけて、自家を背にしてどこを當てともなく逍遙(さまよ)つて行つた。 暗い大川の水を竹屋の渡しで渡つて來れば、きまりのやうに待乳山へ登つて淺草公園や吉原の明るい空を眺めた。長い並木の通りも長いとは思はなくなつたほど歩いて往き來した。 そこでは、古い地名が細かく入りくんで重層し、それぞれの名が歴史と背景を背負っている(図3参照)。例えば〈木挽町〉は、江戸時代には、幕府御用を勤める奥絵師・狩野派のうちの一門が画塾を開いていた町として知られていた。そこに挿絵原稿を持ってゆくと言えば、熟練した木版屋に挿絵図版の彫りを頼みに行った事を暗に示している。あるいは、“大川(隅田川)を渡り、待乳山へ登って淺草公園や吉原を見る”とは、江戸時代に浮世絵や芝居で数多く取り上げられた展望の名所に行き、昔からの遊興の地を見ることであり、いわば江戸時代の粋人と同じ行動である。 その上、東京には新しいスポットが続々と現れている。例を挙げれば、〈日比谷公園〉は、明治三十六年に開園したばかりの、日本初の西洋風デザインの大公園であった。明治四十三年に創刊された芸術雑誌『白樺』の同人・里見と志賀は、当時最先端のモダンな新名所で待ち合わせし、しかし、遊びにいった場所は、比較的古風な江戸情緒を残しているエリアが多い。彼等は、彼等自身の近代性と、場所(トポス)の側の前近代性のギャップを楽しんでいるようにも見える。 このように、東京の地名にまつわる記号体系(コード)を熟知していないと、この文章を読む楽しみは半減してしまう。その意味で、これは、読者を選ぶテキストである。決して万人に“開かれた”表現方法とは言えない。 ではなぜ、吉二の目に、里見弴のこのような方法が魅力的に映ったのであろうか。 |
1.二つの領域 まず、吉二の作品に触れる前に、彼の生い立ちについて触れておく必要があるだろう。 中戸川吉二の父・平太郎は、現在の神奈川県座間市の生まれ。明治十二年、二十四歳頃北海道に渡り、アイヌの人々との交易で得た鹿皮や角を本州で売りさばいて、二年ほどで財をなした。彼はその資本をもとに開拓使から釧路川河口の土地の貸付を受け、明治十六年、開墾に着手した(註1)。その成墾ぶりは目覚ましく、まもなく弟ら親戚も加わって、牧場も手広く経営するようになった。やがて彼はこの地で、白系ロシア人の血をひく女性・サダを娶(めと)った。
やがて吉二ら兄弟姉妹は母と共に熱海で、そして東京で暮らすようになる。吉二がものごころついた時には、父だけが半年を北海道で過ごし、家族はその帰りを待ちわびる、という生活になっていた。吉二にとっての〈北海道〉は、何か「非常に樂しいことのあるところで、父だけが行く權利がある」(中戸川「法要に行く身」)場所であった。 ところがその幻想は、吉二が北海道の叔父の養子となり(明治三十八年)、実際に北海道での生活を始めたことによって完全に破られる。東京育ちの八歳の少年に、雪が解け残る春先の釧路の町は、ただきたならしく見えた。知っている人は誰もおらず、その上、町はずれの養父の家は、ただ大きいだけのガランと寂しい家だった。初めて会った養母ともまったく馴染めなかった。 ただ、例外的だったのが、〈馬〉と〈牧夫〉である。友達のいない吉二は、養父の牧場で馬の世話をしている牧夫たちと親しくなり、やがて、馬に乗せてもらったり、放牧についていってそばで遊ぶようになった。「釧路で過した三年間の思ひ出は、大部分馬に関したことである」(同前)。 そんな吉二も、叔父の死によって、思いがけず、東京の実家に復縁して戻ることとなった。一家団欒の幸せがよみがえった。しかし、妹たちは彼の言葉をきいて笑い、姉は彼の着物の好みが田舎臭くなったのを笑った。絶対に否定したいと思っていたにもかかわらず、〈釧路〉は、三年の間に吉二の中に浸透していたのである。 |
次の東京時代は、吉二にとって、不品行の舞台そのものであった。 十四歳頃に重い腸チブスにかかった事が原因で、運動より読書に親しむようになった吉二は、やがて、『白樺』『スバル』『三田文學』などの文学雑誌を読みふける少年となった。永井荷風や志賀直哉が尊敬の的で、特に荷風の作品には「すっかり参り切つて」(「文壇へ出るまで」 『文章倶樂部』大正九年二月号)いたと言う。明治末年から大正初年頃の事である。 それらの雑誌には、海外の芸術家や作品についての紹介記事が載っていた。ゴッホなどの、いわゆる不遇な天才の生涯が伝えられるようになった。さらにその時期は、十年ほど前から高山樗牛らが鼓吹していた西欧思想的な〈天才〉観が日本にようやく広まり、“時代の先を拓く〈天才〉は、その先進性ゆえに、むしろ世間からは認められない”という概念が一般化しつつあった。しかしそうした思想は、反面で、“世間からは認められない奇行に走る事こそ俗人でない証(あか)し”という観念の倒錯をもたらす原因ともなった。 その影響をまともに受けたのが、当時の学生層であった。中学生だった吉二も、家庭的には何の問題もなかったと自分で認めているにもかかわらず、「温かな家庭の、善良な、常識的な空氣と云ふものがイヤでイヤでならなかつた」「永井荷風の影響が深く頭にしみついてゐて、善良な家庭の空氣に親しんでゐることが、何故か恥かしいことのやうに思はれてゐた」(「友情」大正十年)。やがて彼は、同じように〈芸術〉や〈文学〉の観念に取り憑かれた悪友たちと、競い合うようにして放蕩にふけるようになる。 そんな〈不良少年〉吉二にとって、〈東京〉は悪徳のスリルに満ちた迷宮であった。はじめは近所での買い食い。次には制服の上からマントを羽織り、精一杯ハイカラぶってのミルクホールや汁粉屋通い。学校からは自然と足が遠のき、幾つか転校してみるものの、結局中退。そして行き着く先は遊郭である。女郎屋に払いが出来ず、どこで金を借りるあてもないまま、友人と一緒に浅草から上野、神田、銀座と一日中さまよい歩き、挙げ句に愛宕山の上のベンチで夜を明かしたことなどは、後年の小説「友情」に詳しく書かれている(図3参照)。この時期の吉二は、いわばドラッグに淫するように、自分の非行に淫していた。 * * * * * * * * こうした生活のまっただ中にいた吉二が、里見弴の「君と私と」(『白樺』大正二年四~七月・未完)を夢中になって読んだというのも、ある意味で当然といえるだろう。 告白小説「君と私と」の後半には、放蕩を覚えた「君」(坂本。志賀直哉がモデル)と「私」(加島昌造。里見自身がモデル)とが、一緒に東京の街の暗部をさまよう場面が何カ所も出てくる。 「あつち(吉原)と違つて途中が中々面白いヨ。商船學校の側(わき)からずうツと堤防づたいに行けるからネ。月夜なんかにはいゝぜ。廓も往來が廣くとつてあつて、人道と車道の間に松なんか植つてゐるのが何んだか寂(さび)れたやうな――又まるで別な趣だネ」 かう君は紹介して置いて洲崎へも引張つて行つた。直ぐあとで私は又そこへ獨りで出かけた。淺草の六區も一緒に歩いた。私には明るい電氣や瓦斯の光の下でいかさま公々然と店など張つて居る遊郭よりは、低い軒の薄暗い障子のかげから唇を鼠の聲のやうに鳴らしたり低聲(こゞえ)に客を呼んだりして居る淫賣宿の方が、いツそ闇黒に罪惡々々して居るのがキビ/\と痛烈に感じられた。その一軒へ這入つて、露骨を商賣の秘訣と心得たやうなまだ少娘(こむすめ)とも見へる女と贅言(むだごと)を云ひ合つて出て來たりした。 なお、洲崎と言えば吉原と同じく遊郭の地。また浅草六区は、見世物小屋あり、遊園地あり、陰には私娼窟などもあるという猥雑な活気にあふれた地区であった。 回覧雑誌からはじめた自分たちの雑誌が世に出ることになり、平行して企画していた美術展覧会も実現して、晴れがましさに胸おどらせる青年たち。だがその一方で、西欧の文学や美術によって培われた〈恋愛〉の理想像や精神性は次第に自分自身の肉体によって裏切られ、その絶望感から、〈私〉は自棄的な行動へと向かうようになる。「君と私と」では、その表の活動と裏の苦悩とのコントラストが鮮やかで、それが文章に緊張感と迫力とをもたらしている。 しかし、「荷風氏の随筆(ずゐひつ)のあるものなぞは、自分達不良少年を辯護(べんご)してくれるやうにさへも感じて、随喜(ずいき)の涙を零(こぼ)した」(「文壇へ出るまで」)という若き日の中戸川吉二には、作品の構成よりも、キャラクターの行動そのものの方が関心の的だったようである。〈家庭の反抗児〉である事を誇りにさえ思っていた彼は、そういう自分の嗜好にマッチする文学ならよく、「里見弴の「君と私と」といふ「白樺」に連載(れんさい)された未完(みくわん)の長篇小説(ちやうへんせうせつ)なども、ふるひつき度い程(ほど)好(よ)がつて私は讀(よ)んだものだ」(同前)。 そしておそらく、実際は、吉二が〈好がつて讀んだ〉と意識する以上の影響があったのだろう。「君と私と」の連載は、ちょうどぴったりと吉二の放蕩のピークと重なっているが、どうやら吉二は、その頃から、〈里見弴の作品世界〉というフィルターを通して自分を見、自分の行動を意味づけることを始めていたようなのである。 多分、吉二にとって里見弴は、〈不良と非行〉という過去を持ちながらも、その経験を自己批判的に捉えながら小説の中に生かし切った人であり、彼のような文学青年の希望の星だった。そしてなおかつ、〈東京〉という街の持っているモダンな雰囲気を見事に書きこなしている人物であった。 かつては、自分自身の北海道的な要素を否定したいと思い、特に青年期には切実に〈東京〉風なハイカラ男でありたいと願っていた吉二。(こうした若者にとっては、ワルもまたファッションの一種である。)そんな彼には、里見作品を通して垣間見た〈里見弴〉は、まさに“なりたい自分”そのもののように見えたのだろう。そして年齢も、永井荷風(十七歳上)や志賀直哉(十三歳上)に比べると八歳差とごく近く、世代的な感覚も最も共通していたと思われる。彼が、小説家になることを漠然と夢みるようになった時に、他の誰でもなく、里見弴にまず手紙を書いたのは、様々な意味を含めて“必然”に近かったのである。 |
1.従来参照されていた資料(『釧路発達史』『釧路国郷土誌』等)にはいずれも「明治十四年」となっているが、〈明治十六年七月の根室県御用掛赤壁二郎・酒井純明の巡回復命書〉には、「中戸川は本年五月着手し」とあるので、実際には明治十六年が開墾開始の年だったようである。
(『釧路市史』昭和三十二年 三〇一~二頁)